優しい月-Missing link- (1)

   § : 「優しい月」
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ファンタジー/魂/高校生/先輩と後輩/少年と少女/引きこもり/鬱屈/淡い想い/ファーストキス/途切れた過去/
【短編/完結済/約15000文字/読了時間約30分】
麻奈は引きこもりの女子高生。うまくいかない日々に鬱々と過ごしていた麻奈の前に、ある夜突然、半透明で宙に浮いた少年が現れます。
「やめた方がいいよ」――学校の屋上で、「柵の向こう側」から麻奈に向かってそう言った少年。何この子いわゆる幽霊?と思いながら、その日から麻奈と、「朔」と名乗った少年の不思議な交流が始まります。
やがて麻奈は、少年の名前に覚えがあることに気付き…
 ***
某所で掲載していたものですが、そちらから削除した為、こちらに移動させました。



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「やめた方がいいよ」
 そんな声がいきなり、まったく予想もしなかった方向から聞こえてきたとき、麻奈(マナ)は意表を突かれすぎて反応もできなかった。
 秋から冬へと季節が移ろいつつある夜、半月より少しふっくらした感じの月は綺麗だが、がらんとした屋上を吹き抜ける風は制服のブレザーを着ていても身震いするほど冷たい。腰丈よりもやや高い程度という正直低めだと感じる冷たい鉄柵に、前向きに凭れかかるようにして目を瞑っていた麻奈は、ありえない方向からしたその声に下を向いたまま瞬いた。
 声のした方向、すなわち前方に、ゆっくりと目線を上げる。視界に映る景色が、四階建ての屋上から見下ろせる遠い地面から、家々の明かりが群れるどこにでもあるような夜景に移動する。
 その夜景を背景に、ぽっかりと空中に白っぽい姿が浮いていた。そう、どう見ても「浮いて」いた。自分とそう年頃も変わらないのではないかというくらいの少年が一人、何食わぬ顔で。
「……は?」
 あまりにもありえない光景に、麻奈はしばらく馬鹿のように口を開けてぽかんとしていた。
 月と星の明かりを浴びてぽっかりと空中に浮いた少年は、こんな秋の夜に見るには寒々しいような、黒いズボンに長袖の白いシャツ一枚だけという格好をしている。まじまじとその姿を見て、麻奈は一瞬、男の子だよね? と目を凝らしてしまった。身長もけっこう高いし胸元はぺたんこだし肩幅もあるし。にも関わらずなぜそんなことを思ったのかというと、立ち姿や顔立ちも含めて、なんというのかやたらに「綺麗」な印象だったからだ。少し長めの黒髪がやけに似合っていたせいもあるのかもしれない。
 いろいろと何かもうツッコミどころ満載なのだが、何より目を奪われたのはその姿が半透明であることだった。全体に向こう側の夜景がうっすらと透けていて、そして蛍光塗料でも仕込んでいるようにぼんやりと光っている。
 何、この子。
 麻奈はしばらく空中数メートル前方に浮いた少年を見ていたが、突然我に返った。浮いてて半透明でなんか光ってる。って、それはどう考えても「人間」ではないではないか。
「ひゃっ……あああぁっ!?」
 跳び上がるようにして後ずさり、足がもつれて尻餅をついていた。年頃の少女が上げるには少々はしたない声だったが、この非現実的極まりない状況下では致し方なしというものだった。
 身体の下にひんやりとしたコンクリートの感触があり、吹き抜けた冷たい夜風が膝上丈のスカートの裾を持ち上げて、寒かったり冷たかったり恥らう意識が駆け巡ったりで、あわあわと麻奈はスカートを押さえる。
 一方で、相変わらず何食わぬ顔をしている少年が、そんな麻奈を見てふわりと動いた。空中に浮いたまま音もなく鉄柵を越えてくると、腰が抜けて動けない麻奈のすぐ横に爪先を降ろす。
「やめた方がいいからね?」
 半透明の少年が、もう一度繰り返した。落ち着いて耳に優しい、少しばかりけだるげな声。すぐ横に立った少年に見下ろされながら、麻奈は混乱気味のまま口を開いた。
「や……やめた方が、って、何が……?」
 いや普通に話してる場合じゃないから、と自分で自分に突っ込んだが、あまりにもわけが分からなくて頭がまともに働かない。
「飛び降りちゃおうかなぁ、とか考えてたでしょ? 今」
 少年が小さく首を傾げるようにして、そんなことを言った。ますます目を丸くした麻奈の横に、少年は視線の高さを合わせるようにひょいとしゃがみ込んできた。
「自殺はあの世にちゃんといけなくなるから駄目なんだって。知り合いの死神が言ってたよ」
「し……しにがみ……?」
「それに見た目もひどいことになっちゃうし。この高さから飛び降りても、必ず死ねるとも限らないしさ。やめとこ?」
 あの世とか死神とかひどい見た目とか死ねるとも限らないとか、そんなことをさらりと言われて、麻奈はますます動揺してパニックを起こしそうになる。
 ただ口をぱくぱくさせていたら、ひゅうっと冷たい風が吹いて、麻奈は派手にくしゃみをした。身震いすると、それを見た少年が軽く笑った。
「ここ寒いし、風邪ひいちゃうからさ。とりあえず家、帰ろ?」
 相変わらず世間話をしているような調子。なんだろうこの子、と麻奈は混乱しながらも考え込む。もういろいろとおかしいし、明らかにこの子はこの世のモノではないのだが。にも関わらず、恐いとか不気味だとかいう感じがまったくしない。それどころか間近で見ると、ますます綺麗だ。姿が、というのもあるが、それ以上に雰囲気が。それに声が優しい。声だけでなく、表情も。なんだかすごくやわらかい。
 呆然としたままでいると、ふいに少年が立ち上がった。
「それじゃ、俺も帰るから。ちゃんと真っ直ぐ帰るんだよ。気を付けてね」
「あっ……」
 遠ざかりかけた少年に、思わず麻奈は声を上げていた。反射的に伸びた手は半透明の姿をすり抜けて空を切ったが、うん? と少年が振り返った。
 思わず手を伸ばしてしまった自分に驚いた。まだ混乱も残っている。だがぼんやりしていたらこの子は行ってしまう、と思ったら、考えるよりも先に言葉が出ていた。
「えっと……その、夜道恐いし。家まで送って、とかって……駄目?」
 自分でも言いながら、いや無茶だなと思った。こんな時間までふらふらしていて夜道恐いもないし、そもそも明らかにこの世のモノではない相手をつかまえて何を言っているのか。
 言われた方も予想外だったのだろう。きょとんとした顔で、少年が麻奈を見返した。


 自宅に着いたら、あと二時間ほどで日付が変わるというくらいの時間になっていた。住宅街の中にある、ごく一般的な一軒家の窓には、しかしひとつも明かりは灯っていなかった。
 暗く沈んだその光景を見て、麻奈は気分がすとんと沈み、それで自分が多少なりとも窓に明かりが灯っていることを期待していたと自覚する。
 馬鹿みたい、と惨めな気持ちになって、麻奈は黙って鍵を開け、暗い中を二階の自室に直行した。
 自室のドアを開けて後ろ手に閉め、やりきれない気持ちがおさまらないまま寄りかかった。誰もいない、帰って来たばかりの部屋の空気は寒々としていた。
「今日は留守番?」
「ひゃっ!?」
 ぼんやりしていたらいきなり自分以外の声がして、麻奈はドアに張り付くように飛び上がった。目の前数歩の距離に立っている半透明のぼんやり光る姿に、あ、そうだった、と思うと同時に、また信じられないような気分になる。
「……ほんとにいた」
 思わず言うと、半透明の少年が小さく笑った。
「だって、ついて来いって言ったじゃない」
 そうだけど、と口の中で返しながら、麻奈はあらためて目の前に立っている不思議な姿を見直した。


 突然空中に浮いていた「明らかにこの世のモノではない」少年に、家まで送ってくれとこれまた突然言ったのは麻奈だった。
 少年はきょとんとはしていたが、すんなりと「いいよ」と応じてくれた。ただし、姿を現しているのは疲れるから消えておくけど、それでもいいのならと。そして麻奈が頷くと、目の前で少年の姿はすうっと消えてしまった。本当にあとかたもなく。
 屋上に一人ぽつんと残されて、麻奈はぼんやりと、今のは夢かなぁと考えていた。考えれば考えるほど現実のこととは思えなくて、しばらく考えた末に、夢だな、と結論付けてしまった。我ながら最近の自分は情緒不安定だったし、幻覚のひとつやふたつ見えてもおかしくない気がする。
 いや、今こうやって目の前にまた見えてはいるけど、これが幻覚じゃないって保証もないよね。と思いながら、麻奈は手元の壁を探って明かりをつけた。
「あ」
 途端、ただでさえ半透明だった少年の姿がいっそうかすんでほとんど見えなくなってしまい、麻奈は慌ててぱちんとまた電気を消した。それを少年も察したらしい。
「いいよ、点けて。これなら見える?」
 少年の姿が、それまでよりもすっと鮮明になった。麻奈がもう一度明かりを点けると、薄くはあったがきちんとそこに姿が見えた。
「……うん。見える」
 この子はいったい何なんだろう、とあらためて考えながら、麻奈は部屋の中ほどに進む。明らかに生身の人間ではない相手であるだけに、リアルなわりにこうしていても一向に現実味が湧かなかった。これは夢だと自覚しながら見るリアルな夢ってなんだっけ。明晰夢っていうんだっけ?
 この少年が何であれ、なんとなく目の前で着替えをするのも躊躇われて、制服姿のままカバーのかかったベッドにぽすんと腰を下ろした。適当に座って、と促すと、少年も麻奈からほど近いあたりのカーペットの上に腰を降ろした。
 率直に言ってこの少年は「お化け」とか「幽霊」と呼ばれる存在、のようには思う。人間ではない、という大前提のせいか、こんな時間に部屋に二人きりという状況でもまったく抵抗を感じなかった。いやそもそも、こうしていても頭のどこかで、これは夢か幻覚ではないかと思っている自分がいる。
「……君ってさあ。いわゆるユーレイってやつ?」
 夢なら夢でいいや、と思い、麻奈はさっくりと訊いてみた。
「うん。いわゆるそういうもんだと思う」
 麻奈が気安いせいか、少年も軽い調子で答えた。軽くはあるが、やはり落ち着いた声音。なんだか聞いていると安心するようだった。
「ふぅん。ユーレイなんてホントにいたんだね。あたし零感てやつだし、今までそんなもん見たことなかったんだけど」
 しかも、そういうものと会話が成り立つということも驚きだ。
「今は俺から見えるようにしてるから。そうじゃなかったら見えないと思う」
「へー。そんなのできるんだ?」
「あんまり長くは無理だけどね」
「そうなの? どうして?」
「んー……本当はこっちにいたらいけないから?」
「こっち?」
 質問攻め状態の麻奈に、少年が考え込むような仕種をした。
「この世? かな。俺いちおう、成仏してるって部類に入るんだと思うからさ」
「成仏……」
 実際に幽霊であるという相手から聞くと、他で聞いたなら胡散くさいような言葉でもやけに説得力があった。
「成仏とかあの世とか、ほんとにあるんだ」
 麻奈は自分の膝の上に頬杖をついた。
「俺にもよくわかんないけどね。気が付いたらこうなってたし」
 あくまでも雑談のように言った少年に、麻奈はふとまばたいた。
 そうだ。当たり前のことだが、この少年が本当に幽霊とやらであるとするなら、彼はかつてこの世で生きていて、そして既に死んでしまった人間だということになる。麻奈と同世代に見える彼が幽霊化するなんて、その原因は当然何かしらのアクシデントだったのだろう。
「……あたし、本気じゃなかったからね」
 呟いた麻奈に、少年が黒い瞳を動かした。ごく何気ない眼差しでありながら、ふいに息が止まるほどそれが真っ直ぐに感じられて、麻奈は一瞬ひどくドキッとした。我に返って、慌てて逸らす。
「ほ……ほんとだよ。そんな度胸あたしにないもん。いろいろあって、ちょっとへこんでてさ。その……ちらっとは考えたけど、全然本気なんかじゃなかったんだからね?」
「うん」
 それだけを少年は言った。また目が合うと、少年はごくやわらかい笑顔を見せた。
 ……綺麗だなぁ。
 こんなに綺麗な笑顔があるんだ、と思ってしまうような、こちらの気持ちまで洗われるような笑い方に、麻奈は思わず見とれてしまい、はっとしてまた慌てて顔を逸らした。
「……き、君の方は、なんであんなところにいたの?」
 実際それは気になることでもあった。どうやら既に成仏していてこの世にいてはならないようなのに、なぜこの少年はあんなところをふらふらしていたのだろう。
「ああ。あそこ、俺の通ってた学校なの」
 あっさりと少年が返した言葉に、何気ないつもりで聞いた麻奈は驚いてしまった。
「え……そうなんだ?」
「うん。眺める程度だけど、懐かしくてたまに行っちゃう。ほんとはいけないことだから、行き過ぎると叱られちゃうんだけどさ」
  誰に怒られるんだろうとは思ったが、それよりもこの少年があの学校の生徒だったという方が気になった。麻奈が屋上に立っていた、あの学校。それはつまり「麻奈が今通っている高校」である。ということは、この少年は実は、麻奈の先輩にあたるということだ。幽霊にその表現が当てはまるかはさておいて。
「君……名前、なんていうの?」
 現実のものとはとても思えないこの少年が俄然身近な存在のように感じられてきて、好奇心のままに麻奈は尋ねていた。
「俺?」
「うん。他にいないでしょ」
 少年は少し言いよどんだようだったが、すぐに答えた。
「俺は、サク」
「さく? って、どんな字?」
 そこでまた、少年は沈黙した。睫毛の長い瞳を伏せて黙り込んでいる。何かまずいことでも聞いたのだろうか、と麻奈が心配になってきた頃、やっと少年が口を開いた。呟くように。
「新月の……朔月の朔」


 少し珍しい名前だった。名前と漢字を聞き、頭の中でその響きと文字が合致した瞬間、麻奈はふと、どこかでその名前に覚えがあるような気がした。
 だがその場では思い出せず、それからさほどもせずに、朔と名乗った少年は姿を消してしまった。どうやら本当に、本来その姿をまったく見ることができない麻奈のような人間の前に姿を現しておくことは大変らしい。
 突然姿が見えなくなってしまって慌てた麻奈の耳に、朔の柔らかな声だけが幻聴のように聞こえた。そろそろまずいから帰るね、と。それを聞いた麻奈は、咄嗟に「また来れる?」と言葉を返していた。
 少しの沈黙の後、柔らかな声は答えた。また来る、と。


 翌朝になっても、麻奈の家は冷え切ってガランとしていた。パジャマ姿のまま、雨戸が締め切られて暗いリビングに降りていくと、テーブルの上に一枚のメモといくらかのお金があった。
 仕事が忙しいことと、しばらく帰宅できないという内容の母親の文字を見て、麻奈はそれを丸めると思い切り放り投げた。メモは白い壁に当たって、あっけなくぱたりと落ちて転がった。


 雨戸を締め切り、ベッドに転がったまま、麻奈は鬱々と時間を過ごす。今年の春高校に入学したばかりのときは、こうではなかった。麻奈なりに必死で勉強して、なんとか合格した県下トップの進学校。その頃はまだこの家に父親も母親も揃っていた。たとえ顔を会わせるたびにふたりが険悪な怒鳴り合いをしていようと、家中の空気が年中ぴりぴりしていようと。
 両親は昔から、麻奈がテストで良い点を取ると喜んでくれたから、良い学校に入って、良い成績を取って、それで少しでもまた二人に笑ってほしくて、麻奈は入学してからも頑張った。その頃には麻奈がどんなに成績のことを報告しようと、二人はそれが当たり前だという顔をして、もう笑ってくれなかったけれど。
 最初は友達もたくさんいて、少なくとも学校にいる間は寂しいと思うことはなかった。しかしクラスの女子のリーダー的な少女とささいなことで喧嘩をしたときから、麻奈の環境は一変した。進学校なせいかいわゆる陰湿ないじめはなかったが、誰もが麻奈と距離を置き、麻奈がいないもののように振る舞い始めた。
 今までそんな状況に陥った経験は一度もなかったから、麻奈はひどく戸惑った。人付き合いで困ったことや、うまくいかなかったことなんてこれまでに皆無で、どちらかという常に友人達の中心にいた。そこから突然はじき出されたとき、真奈は戸惑いが大きすぎて、何をどうすればいいのかも分からなかった。
 最初こそ、自分の勘違いだ、気にしすぎたと思って、普段通り彼女達に話しかけ、とけこもうとした。けれど見えないひんやりとした壁がそこにあるように、彼女達は麻奈のことをやんわりと、しかし徹底して拒絶した。
 いっそ明確な嫌がらせがあった方が、まだ対処しやすかったのかもしれない。あくまでも柔らかく、具体的ないじめ行為もなく、ただいないもののように扱われる。そんなことがずっと続くうち、麻奈は完全に途方に暮れた。
 誰も相手をしてくれないんです。そんな子供のようなことを言い出して、先生や両親を困らせるような情けないことも出来なかった。そしてせめてクラス内に埋没しよう、できるだけ教師達に異常を感じさせず浮かないようにしようと、次第に愛想笑いと作り笑いを顔に貼り付けるようになった。
 そんな自分がたまらなく惨めだったが、これまで何事にもさして苦労もせず、困ればすぐ何かを相談できる友達にも事欠かず順調そのものに生きてきた麻奈は、一人きりで初めて直面した異常事態に対応し切れなかった。まだ大人になり切れない幼く弱い部分が肥大し、次第に思考が後ろ向きになり、八方塞がりになった。
 ひとりですごす学校は、あまりに寂しかった。クラスの女子達の顔色を常に伺い、何か彼女達が話していれば自分の噂ではないかとびくついて。それでも成績は落としたくなくて、必死で学校に通い続けた。
 そんな数ヶ月が続き、そして父親が家に帰って来なくなった。後になって知ったが、父は外に他に付き合っている女性を作っていたらしかった。
 あるとき学校から帰ると、母が狂ったように携帯電話に向かって何か喚いていた。電話が切れたあと恐る恐る呼びかけてみたが、突っ伏すようにした母は「うるさい」と麻奈に電話を投げつけてきた。麻奈は二階の自室に入って鍵を閉めて、泣きながら制服のままベッドにもぐり込んだ。
 その日から、麻奈は母とほとんど口をきかず、学校に行かなくなった。


 誰かと会話する機会自体が極端に減っていた麻奈にとって、朔と名乗る幽霊の少年と話すことが何よりの楽しみになるのは時間の問題だった。
 毎日ではないが、朔は夜になるとふらりと現れて窓をコンコンとノックする。そしてたわいもない話をしては帰ってゆく。元々彼にはそのつもりはなかったのかもしれないが、帰りがけに必ず麻奈が「また来れる?」と聞くので、いつの間にかそうなっていたという感じだった。
 幽霊である彼がどこから来てどこに帰るのか、それは麻奈にはまったくもって分からない。そもそも朔がいわゆる幽霊である実感が、未だに麻奈にはない。寂しさのあまり幻覚を見ているのではないか、という自分への疑いさえ、未だに捨て切れない。


 そんな不思議な出来事ではあったが、それは鬱々としていた麻奈の日々を次第に変化させた。 
 一日のほとんどをベッドでパジャマのままですごすことが当たり前になっていたが、朔が訪れるようになってから、麻奈はきちんと起き出して洋服に着替えるようになった。最低限の家事しかしておらず荒れていた家の中も、次第に毎日片付けるようになった。
 自分が本当ならやるべきことをやらずにどんどん怠惰になっている、という自己嫌悪と罪悪感も麻奈を余計に鬱々とさせていたので、そうするだけでも気分がかなり明るくなったことに自分で驚いた。
 朔が姿を現していられる時間はそれほど長くはなく、どういう加減なのか日によっても違う。一緒にテレビを見たり、どうでもいいような話をしたり、好きな本や音楽の話をしたりしていると、それこそあっという間に時間が過ぎてしまう。
 それでもその不思議でたわいもない短い時間は、今の麻奈にとっては何よりもなくてはならない大事な時間になっていった。


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