0.prologue 炎に消える

   § : ZERO 「0.prologue 炎に消える」
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 燃えさかる炎が、赤黒く風景を染めていた。
 吹き荒れる熱気に大気が揺らぎ、まるで水中にいるかのように視界がゆらゆら滲んで見える。剥き出しの金茶の瞳にぶち当たる耐え難い灼熱波に、少年はたまらず目をしばたいた。
 滲む視界に映るビルの群れは、多くが吹き上がる黒煙と赤い炎にからみつかれている。あたりには金色の火の粉がきらきらと舞い踊り、それは場違いなほど美しかった。
 立ち尽くす耳に、いかにも獰猛な獣が吼える声が聞こえてきた。今まで聞いたこともない、悪魔というものが存在するならきっとこんな声をしていると漠然と思うような、低く低く不吉な唸り声。灼熱のさなかに居るにも関わらず、少年の背筋がぞっと粟立った。
 それは獣の唸りではなく、炎が逆巻きあらゆるものを舐め尽くしてゆく音に他ならなかったが、突然身に降りかかった災厄に思考能力が麻痺した少年には、それを理解することができなかった。
 ――怖い。聞きたくない。
 無意識に耳をふさごうと、ゆるゆる腕を持ち上げる。左腕の感覚が失せて動かなかったが、思考の麻痺した少年は自分でそれに気付けない。のろのろと一本だけ持ち上がった右の腕が、右の耳をふさぐような動きをした。
 その右手には、もがれたように手首から先が無かった。


 意思ではない涙が、煤と泥に汚れた頬をぼろぼろとこぼれていく。煙や熱波、それらに混ざって漂う有害物質が、染みる、あるいは刺さるような痛みを伴って、網膜を刺激する。
 ありとあらゆるものが燃え上がる強烈な臭気があたりを覆っていたが、嗅覚もとうにきかなくなっていた。非日常の極みといっていい辺りの光景が、片脚を引きずりながら歩く少年の瞳に、虚ろに映し出されては流れてゆく。
 乗り捨てられたり追突したままの車が、道路のあちらこちらをふさいでいた。その道路の両脇で、飴のように街灯が折れ曲がり、あるいは倒れている。街路樹もとっくに燃え上がり、不気味な真っ黒い骨のような姿を晒していた。歩道にはビルの窓から落下したガラスが散乱し、整然としたエントランスも、綺麗にディスプレイされていたショウウィンドウも、どこもかしこもガラスが割れて原型を留めていない。
 幾重にも折り重なるサイレンが街を覆い尽くしている。よく耳を澄ましてみれば、炎の轟音やサイレンの音に押し潰されてしまいそうに、そこら中から呻き声や唸り声、啜り泣くような声が漏れていた。崩壊した風景の中に、煤や血にまみれてうずくまる、あるいは倒れたままの人々の姿が見えた。
 そこを歩いてゆく少年自身もまた、まだ立って歩けるというのが不思議になるほどの有り様だった。
 歳の頃は、十三、四歳程度。
 爆発か何かに巻き込まれたのか、左半身の損傷が特にひどい。引きずる左脚は大腿部が大きくえぐれ、真っ白い骨が覗いている。腹部には金属の破片とおぼしきものがめり込み、咄嗟にかばったのか頭部はかすり傷程度のようだが、かばうのに使われたらしい左腕は衣服もろとも焦げて形が失われかけていた。そして完全に欠落した、右手首から先。
 軍服を模した特徴的な淡いグレーのオフィサーカラーは、少年が士官学校の生徒であることを物語っていた。しかしその制服は見るも無惨に泥と血と煤に汚れ、今やただのボロのようだ。本来は明るく陽に透ける金茶であろう頭髪も、僅かに汚れていない部分にその色合いを残すのみ。まだ左の腰に下がっている軍用サーベルも、おそらく二度と少年の手によって抜かれることはないだろう。
 崩壊した街角で、時折誰かとすれ違う。その誰かは大抵誰かを捜すように大声を張り上げ、バタバタとせわしなく通り過ぎてゆく。中には無惨の一言に尽きる少年の姿にギョッとして立ち止まる者もいたが、すぐに見なかったように目を逸らして走り抜けていった。
「……ぁん。おか……おかあさあん……おとうさぁん……」
 ドアの壊れた誰も乗っていない車の陰で、オーバーオールの小さな女の子が、煤だらけの顔で泣きじゃくっていた。自身が走り抜ける人々に一顧だにされないように、片足を引きずりよろよろとその傍らを通り過ぎた少年もまた、女の子を一瞥もしなかった。

 どれほどそうして歩いた頃か。
「……あつい、な……」
 ぽつり、と少年の乾き切った唇から言葉が洩れた。
 熱い。
 破壊され飛び散った瓦礫の隙間から、ちろちろと真っ赤な舌が蠢くように炎がのぞいている。さんざん炎に炙られた空気は既に灼熱しており、血も汗も涙もすぐに蒸発して、肌をぱりぱりにしてしまう。
 熱い。
 いったいどこまで歩けば、この地獄絵図から抜け出せるのだろう。どこまで行っても果てがないように思える。そもそも今、自分は何のために歩き続けているのだろうか。
(熱い……)
 既にまともな思考回路などショートしている。灼熱する空気に炙られた肌のように、頭の中も異様に熱い。痛み、は……感じない。
「あ、そうか」
 ふと、少年が立ち止まる。まともに働かなくなっていたその頭に、前触れなしに突然記憶が戻ってきた。それは少年を現実に立ち返らせ、同時に急速にその身体から力を奪った。
「今日、最初の、市街演習……だったんだ……」
 ガクン、とその膝が折れた。
 熱を持ち荒れ果てた路上に、壊れた人形のように倒れ込む。傷口が焦げたことで出血自体はさほどでもないせいか、倒れてもそれほど身体の下のアスファルトは汚れない。
 ぼやけた少年の目が、頬を地べたにくっつけたまま、上空を辿るように動いた。
 街のあちらこちらから吹き上がる炎と黒煙の隙間から、その禍々しさとのギャップにおかしくなってしまうほどの、爽やかに晴れた初夏の青空が見えた。
「これ……夢じゃ、ないんだよな……?」
 無意識のうちに、乾きひび割れた唇がこみあげる笑みの形に動いた。しかしすでに笑う力さえろくに残っておらず、笑みともつかぬ半端な形に唇を歪ませたにすぎなかった。
 そうだ。今日は士官学校に入学してから初めての市街地演習で、街に出て巡回パトロールについての説明を受けていた。
 その最中、まったくの突然に、平和な街角が文字通り爆発四散した。至近で爆風を浴びた少年には、何が起きたのかまったく分からなかった。一緒に居た教官も兵士も同級生達も、そのあたりにいた一般市民達も、みんな分け隔てなく一瞬で吹き飛ばされた。衝撃に薄れゆく意識の中で、飛び交う怒号と誰かが悲鳴のように絶叫する声が聞こえていた。
 ――テロだ、と。
(テロ……)
 焦点を失った瞳のまま、少年は長い時間をかけてまばたいた。
(そうか……俺)
 瓦礫の中で目を覚ましたときには、少年は突然受けたあまりの衝撃にまともな思考能力を失っていた。そしてそのまま、気を失う寸前に聞いた「テロ」という言葉を頼りに、悪夢の中を行くようにあてどもなく街を彷徨い始めたのだ。きっと何処かにいるに違いないレジスタンス達の姿を探して。
(俺……)
 顔の前に落ちていた自らの焦げた左手が、意図せずにぴくりと動いた。さらに動かしてみようと思ったら腕全体が痙攣するように震え、それを最後にどうしても動かなかった。
(俺……死んじゃうのかな)
 死にたくない。
 だけれど、死というのは想像していたのよりも案外穏やかに訪れそうだ。痛くもないし、たいして苦しくもない。全身が底知れない真っ暗な地中に落ちてゆくような虚脱感があるだけだ。
 あれほど熱かったはずが、倒れているうちに次第に寒気に変わってきていた。骨から冷えてゆくような、身体の内側からゆっくりと熱が失せてゆくような感覚。
 やがて脱力感を伴った、強烈な睡魔が襲ってきた。
「……セネ……」
 一年前の入学式前に会ったきりの幼馴染の少女の名が、唇からこぼれた。
 確かに自分は軍人になろうと思っていた。でもそれは、別に軍人になりたかったからではない。スラム育ちで両親もいない自分が身ひとつで成り上がるためには、手頃なエリートコースである士官の道に進むのが最も手堅い方法だったからだ。だからそのために必死であれこれ努力して、士官学校の奨学生になった。
 その選択がこんな巡り会わせを生むことになるだなんて、神様なんてやっぱりこの世にはいないのだろう。
 多くのレジスタンスが跋扈する今の世の中、テロ行為なんて珍しいことでもないとも知っていたけれど、こうなって初めて分かった。
 結局のところ自分も、嫌っていたはずの大半の愚鈍で間抜けでありきたりな人間達と同じだったのだ。こんなことが自分に起こるわけがない、と思い込んでいた。「明日」とはずっと続くもので、そのうちやろうと思っている事はいつかできるものだと信じて疑わなかった。――会いたい人にはそのうち会える、と思っていた。
「……セネ……」
 最後に会いたかったな。一目でいいから。
 瞼が力を無くし、すうっとすべてが闇の底に落ちていきそうになった、その時。
 カツッ、と間近で音が響いた。アスファルトを打つ、硬くけれど軽い音。
 ――靴音――。
 それが耳を打った瞬間、意識の混濁しかかっていた少年が目を見開いた。欠けた右腕が、バネのようにその身体を起き上がらせる。
 その身体を瞬間に駆け巡り支配したものは、思考ではなく死に瀕した動物の反射行動に近いものだった。少年の無意識は、そこに現れた何者かを瞬時に「敵」と認識した。それは捜そうとしたレジスタンスの錯覚だったのかもしれないし、今まさに奪い去られてゆく命を繋ぎとめようとする、やみくもな足掻きだったのかもしれない。
 手首から先が無いことを知らない動きで、右腕が左の腰に下がった軍用サーベルの柄に伸びる。そうしながら、憑かれた眼で少年は走り出した――ほんの数歩の距離にいつの間にか立っていた、一人の若い男に向かって。
「!…………」
 いきなりの出来事に、男が息を飲んだ。突進してくる少年を咄嗟にかわしかけ、しかし中断して腕を伸ばす。
 一瞬で今度こそありったけの力を使い尽くした少年の身体が、男に届く寸前で倒れかかった。その小柄な身体を、長くしなやかな腕が受け止めた。


 倒れかかる少年と一緒に、少しでもその衝撃をやわらげようと男も膝を落とし身を屈めた。
 その動きに、コートのように丈の長い前後とサイドの割れた黒い裾が広がる。インナーに喉元まで覆われた上に大き目のスタンドカラーが掛かる、全体に留め金の多い一風変わった黒い軍服。その肩の上で、黒絹のような長めの髪先がふわりと揺れた。
 男はあっけにとられて、ぐったりと完全に意識を失った少年を見下ろした。煤と泥と血に汚れた、見るも無惨な重傷を負った金茶の髪の子供。士官学校の制服を着ているから、今日この地区で行われていたらしい少年部の市街地演習に参加していた生徒なのかもしれない。
 それにしても……。
「……こんな子供が」
 少年の無惨の一言に尽きる有様に、男は形よく伸びた眉をひそめた。長めの前髪の向こうに透けて見えた瞳の色は、鮮やかなスカイブルー。歳の頃はまだごく若い。
「どうしました?」
 煙と舞い上がる粉塵にけむったその背後から、追っていくつも人影が現れてくる。重武装をしたSTF(特殊部隊)、他にも武装した兵士達が、声を掛け合いながらバラバラ現れては崩壊した街角を奥へと向かっていった。
 ゴーグルを持ち上げて少年を見たSTFの男が、眉を寄せた。
「……ひどいな。生きてるんですか?」
「息はある」
 黒髪の男は短く答え、少年を抱いたまま立ち上がった。素肌のほとんど見えない漆黒の軍服の下には、細身ながら鍛え上げられた身体が隠されているのだろう、それを察するには十分な動きだった。
「どこへ?」
 少年を抱き上げたまま軍用ブーツの踵を返した黒髪の背中に、STFの男が尋ねた。
「救助部隊に」
「可哀想ですが、もう助からないと思いますよ」
 黒髪の男は一瞬振り向こうとしたかに見えたが、結局そのまま粉塵の向こうへ歩み去っていった。
 STFの男は首を一振りすると、仲間達を促して、逆方向へ駆け出して行く。
 その頭上を、鳴り響くサイレンに混じって、何機ものヘリのプロペラ音が通過していった。


 ――その日、世界最大級のメガロポリス(巨大都市圏)の中枢たる「大アグラス市」、その新市街の一角が、政府に不満を持つレジスタンス達に仕掛けられた大量の爆弾によって、壊滅的な打撃をこうむった。
 使用された水素性爆弾は、特に威力の高い新型のものをさらに改良したもので、たった一発で高層ビルを吹き飛ばすことができる危険極まりない代物だった。
 高層ビルが何本も倒壊するほどの甚大な被害を受けたその区画は、中心がオフィス街であり、網の目状に都市を巡るモノレールを中継する巨大ターミナルも存在した。テロが起きたのは平日の日中であったため、人口の集中も大きかった。また比較的裕福層の住まう新興住宅地も隣接しており、激しい火災はそちらにまで及んだ。
 三千人以上に上るという犠牲者達が完全に収容され、行政が壊滅地区の復興作業に乗り出すまでに、実に一ヶ月もの時間を要した。三千人というのは、ほぼ即死、もしくは救出が間に合わず現地で死亡した者の数であり、即死には至らなかったが収容先で息を引き取った者、さらに重軽傷者の数まで含めると、その被害者総数は膨大な数にのぼった。
 住居や勤め先、財産を失った者も数知れず、街と市民の受けたダメージは「歴代テロ史上最大最悪の規模」となった。
 そしてまた街は復興に向かっても、その運命の日に巻き込まれ、本来あるべき人生を、未来を崩壊させられた人々の心の傷は、飽くことなく血を流し続けて癒えることを知らなかった。


 ――その日、世界の運命もまた変わった。


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