3.光の輪に咲く花 (1)

   § : ZERO 「3.光の輪に咲く花」
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 復活祭に賑わうアグラスに夜の帳が降りる、そのいくばくか前。
 SCSを無事に脱出したイリヤは、手配が回るより早く一番近くにあった旧市街へと続くゲートをくぐり、人ごみにまぎれて「下」に降りた。
 お祭り騒ぎに沸き返る旧市街でも、とくにゲート近辺は人ごみでごった返している。彼は難なく雑踏の中にまぎれて、更に旧市街の奥に入り込んでいった。
 もともと治安が悪く、犯罪の温床でもある旧市街のスラムには、ガラの悪い者やいかにも何かやらかしていそうな物騒な連中が多い。また「上」を憎む者も多く、多少怪しい人間がいてもよほどの賞金首とかでない限り誰も進んで通報しようとはしない。ちょっと怪しい程度でいちいち通報していたらきりがない、というのも事実ではある。なのでスラムにまぎれ込んでしまえば、まず一安心ではあった。
 他の者達は無事なのだろうか。気にはなったが、連中もSCSから脱出さえ出来ていたならば後はなんとでもするだろう。
 さしあたっての問題は、とイリヤは周囲を見回した。
 現在位置の把握がさっぱりだった。五年前……いや六年前まで住んでいた街とはいえ、アグラス旧市街は広大である。しかも自分がここにいなかった六年のうちに、大きく様相を変えている。
 頭の中にある古めの地図を呼び起こしながら、何か地名を示すものがないかとあたりを見回しながら歩いた。
 やがてそれを、すっかり錆び付き金具が外れて落ちかけた案内標識に見つけた。
 ファンオール地区。
 かつては多くの保養施設や美しい公園が集中していたこの地区も、今では浮浪者の多いうらぶれた場所と化している。このあたりまではさすがに祭りの賑わいも届かず、むしろ雑踏を通り抜けてきた後だけにいっそう閑散として見えた。
 頭の中の地図と照らし合わせ、ヴァルハラのある歓楽街の一角まで、今日中に歩いていけない距離ではないと判断する。
 様々に頭をよぎる感情はあったが、それらのすべてよりも今はやはり心配の方が先に立った。何をさておいても、今はやはりヴァルハラに戻らなければ――と、歩き出しかけたその足が、ふと止まった。
 まだこの街が明るく美しかった頃の名残りである、小さなビルとビルの隙間。今ではすっかりじめじめと一日中暗く湿っている路地の先に、妙にこのスラムにそぐわない色彩があった。
 それは鮮やかな緑色をしていた。樹木の集まりであることをすぐに理解する。新市街が出来る前の、緑地公園か何かの跡なのだろうか。
 誘われるように足がそちらに向いてしまったのは、スラムの中に目に鮮やかな樹木がある、というその光景が珍しかったからだった。手入れをする者もいなくなってしまったせいもあるが、南側を新市街に塞がれて一日中まともに陽光が差さなくなってしまった旧市街では、どんな植物もろくに育たない。土も空気も汚れているから、育ってもみんな妙にねじくれて、ひょろひょろで、本来は美しい花弁や緑を広げるはずの枝葉もくすんだ色になってしまう。当然、育ちもしないで立ち枯れてしまうことも多い。
 路地を通り抜けると、そこはやはりかつての公園跡のようだった。といっても目に見える範囲の敷地内はすっかり荒れ果てている。かつては明るい憩いの場だったのだろうが、石畳は剥がれ、花壇はもはや原型を留めず、スロープを描く路もひび割れて通行さえ困難な様子だ。公園名が刻まれていたのだろうプレートは、断片すら残っていない。
 樹木はその光景の右手側に広がっていた。いや、広がるというほどの規模ではないようだ。かつてはちょっとした森林浴気分を味わえる遊歩道だったのだろう。今ではそこには、細い獣道が続いている。
 獣道とはいえ、道がある、ということは、ここを頻繁に行き来する何者かが今もいるということだ。
 茂る樹木の色彩に、イリヤの足は吸い込まれるようにその細い道に向いていた。
 薄暗い旧市街の中にあって、このあたりは奇跡的に陽光の差す時間が長いようだ。見上げると木々の隙間から、若干西に傾きかけた陽射しが静かに差し込んでいた。知らず足取りがゆっくりになる。空気すら他の場所とは気配が違う。獣道は細く続き、下生えの草が含んだ水滴が編み上げブーツを濡らした。ここが薄暗く猥雑なスラム街の中であることを忘れるような、樹木やそこに生きる小さな生き物達の息遣いが穏やかに満ちる静けさだった。
 やがて獣道の先に、終点と思われる空間が現れた。
 木々の隙間から、二階建ての建物と思われる白っぽい壁が見えてくる。新市街が出来る以前の建物なのか、かなり大きなそれの屋根は一部が丸いドーム型になっている。その建物の前は庭のように開けており、獣道はその空間に繋がっていた。そこに近づくにつれて、いくつかの明るい声が聞こえてきた。
(……子供の笑い声?)
 建物の前のその空間は、柔らかな緑の絨毯に覆われていた。ひらけたそこに陽光が差し込んで、芝生の間に顔を出す色とりどりの小さな花を照らしている。風がふわりとその花々を撫ぜた。小さな首を傾げるように、それらは揺れた。
 イリヤは思わず立ちすくんでしまった。
 ――なんだろう、ここは。
 こんな光景、もう何年も目にした覚えが無い。こんな場所がスラムの片隅にあったことにも驚きだが、同時にそのまばゆいような光景に戸惑いを感じた。その清浄ですらある光景の中に進むには、戦闘服とプロテクターと武器で身を固めた自分の存在はあまりにも無粋で、異質であるように思えた。
 その光の庭の中には、小さな子供が二人と、娘が一人いた。青草の上に向こうを向いて座り込んでいる娘にじゃれつくように、子供二人はその手元を覗き込んでいる。
「あっ……」
 子供の一人、艶やかな黒髪の幼い女の子が、木立の間に不意に現れたイリヤを見つけて立ち上がった。怯えた表情もあらわに、後姿になっている娘の袖を強く引く。娘は膝の上にスケッチブックのようなものを広げていた。長い栗色の髪をハーフアップにリボンでまとめた後姿。娘は白い紙面に目を落としたまま動こうとしない。イリヤにまるで気がついていないようだ。
「なあに、エマ?」
「あっ!」
 もう一人いた子供、こちらは男の子も、イリヤを見つけて弾かれるように立ち上がった。やはり怯えた小動物のように、ぎゅっと娘の肩にしがみつく。その様子を見て、物騒な大剣を背負い戦闘服姿でゆらりと立っている自分の姿が彼らにとっていかに不審を誘うものであるのか、イリヤはあらためて自覚した。
「シリルお姉ちゃん! シリルお姉ちゃんてば!」
 その精一杯切迫した声に、ようやく娘が動いた。スケッチブックを閉じて、しがみついてくる幼い少年と少女を見る。
「なあに? どうしたのよ、エマもユーリも……」
 視界が動いたことで、ようやく娘は木立の間に自分達以外の人影があることに気が付いたようだった。肌の白い顔が振り向き、透き通った碧の瞳がイリヤをとらえた。
 驚いたように少女が立ち上がり、その膝からスケッチブックがすべり落ちた。光を浴びて透明に輝いたゆるく波打つ栗色の髪が、そのとき吹いた少し強めの風に長く揺れた。風は何枚かの花弁も巻き込んで舞い上げた。
 年齢は、イリヤより幾らかは下だろうか。
 少し力をこめてふれたらそれだけで傷ついてしまいそうな白い肌、小さめの鼻と唇。全体的に小作りのその顔の中で、イリヤを見つめる睫毛の長い大きな瞳が、何かひどく印象的だった。どこまでも澄んだ泉を思わせるような……水と緑を連想させるような、その瞳の透明感。
 同時に強い既視感を覚えた。懐かしいような、どこかで会った事があるような――束の間時が止まったようなその瞬間、イリヤは何故か彼女から目を離すことができなかった。
「シリルお姉ちゃん……こわいよう」
 エマと呼ばれた少女が、今にも泣き出しそうな顔でぎゅうっと娘の腰のあたりにしがみついた。ユーリという少年も、娘に抱きついたまま恐々イリヤを見ている。娘の顔にも警戒に近い色が浮かんだ。幼い子供達を守るように、さりげなく自分の背中の方に移動させる。
「あなたは誰?」
 イリヤが口を開くより早く、娘の声が響いた。静かな、抑えた、澄んだ声だった。
「すまない。驚かせるつもりじゃなかった」
 イリヤはそれを証明するように、両手を広げて彼女達のいる光の輪の中に進み出た。彼の無粋な姿もまた、差し込む透き通った陽光に照らされた。
「ただ、植物があるのが珍しくて……辿ってきたら、ここに出た」
 娘はしばらく窺うようにイリヤをじっと見つめていたが、やがて警戒をといたらしく、ほっと細い肩の力を抜いた。
「そうなの。ごめんなさい、変に疑ったりして」
 イリヤは首を振る。
「無理もない。なにしろ周囲は荒れてるし……俺当人に至っては、この格好だからな」
 娘は落ちたスケッチブックを拾い上げると、微笑した。
「時々あなたみたいに、緑に誘われてここに来る人が居るの。あなたも悪い人には見えないわ。どう、この場所綺麗でしょう?」
「ああ。まさかこんな場所が旧市街にあるなんてな」
 イリヤは緑の草に混じりあたりに咲き乱れている、小さな花々の群れを見下ろした。本当に、この目で見なければ信じないところだった。アグラスの土もまた、周辺の土壌同様に汚染されている。ただでさえ植物が育ちにくいところに陽も差さないので、旧市街の眺めには決定的に花と樹木が欠けているのだ。
「綺麗だな……」
 光が、花々の華やかな色が、樹木の色の優しさが、そこに吹く風の柔らかさが、ひどく胸と目に染みる。幾度も目を瞬き、イリヤは若干長めで邪魔な前髪をかき上げながら、飽くことなくこの光差す場所を眺め続けた。
 娘はそんなイリヤを、しばらく黙って見ていた。この暗い街に住む人々にとってこの光景がどれほど奇跡的に美しく感じられるか、よく心得ているようだった。
 やがて娘は、遠慮がちに口を切った。
「あなた……この近くの人?」
「え?」
 不意の問いかけに、半ばぼうっとしていたイリヤは慌てて視線を娘に戻した。見知らぬ人間の目の前でぼんやりするなんて、久しくなかったことだった。
「ああ、いや、俺は……」
 答えかけた視界が、不意にグラリと回転した。
(――え?)
 まったくの唐突に、それは彼を襲った。
 脳髄を貫くような激痛が走った。なんだこれは、と思わずそのままの言葉が口から出そうになった。しかしあまりの激痛に声すらまともに出ず、三半規管まで狂ってしまったように真っ直ぐ立っていられない。耳鳴りを伴ったそれは、強烈な嘔吐感すら誘発した。
 ほとんど呻き声も出せずにうずくまる。突然崩れ落ちたイリヤの姿に、娘が驚いて走り寄った。
「どうしたの!? エマ、ユーリ、中に戻ってみんなを呼んできて! お父さんとお母さんを……急いで!」
「う、うんっ!」
 エマとユーリは、慌ててつんのめりながらも、小さな身体で一目散に駆け出していった。娘はイリヤを抱え起こそうとしたが、彼が重い大剣を背負っているせいで無理だった。たちまちのうちに吹き出した脂汗に濡れた彼の額に手を当て、その顔を覗き込んで呼びかけてみるが、すでに瞼は固く閉じられている。
(俺は……いったい何がどうしたんだ?)
 薄れてゆく意識の中で、ぼんやりとイリヤは考えた。何が起きたのか分からない。
 ただ、優しくあたたかい何かにくるまれているようで、それが少しだけ身体中が砕けてしまいそうな苦痛をやわらげている気がする。その自覚らしい自覚もないまま、数瞬のうちに彼の意識は混濁する。
 じきにイリヤの意識は、完全な闇の中に吸い込まれていった。


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