4.明日の行方 (1)

   § : ZERO 「4.明日の行方」
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 ……こんなのは全部悪い夢だ。
 墜落しているのか浮遊しているのかも分からない混沌とした中で、シリルは呟いた。
 大事な家族がいる。笑っている。幸せに私達は暮らしていた。それに変化が起こるとしたら、いつか各々がそれぞれの夢を抱いて、この場所から巣立ってゆく時だと……そう思っていたのに。
(火が見えるわ)
 シリルの肉眼は、それを見ていなかったはずだった。だがなぜか彼女はそれを知っていた。毎日たくさんの笑顔が満ちていた貧しい孤児院。光あふれる庭。それを無慈悲に焼き尽くす炎の色を。
(赤い色が……見える……)
 炎の向こうから、別の赤が滲み出してきた。それは彼女の愛する家族達の身体から流れ出した血の色だった。もう動かない、もう喋らない、もう笑わない、大切なこどもたち、愛する両親の姿。
 シリルは魂が砕けるような悲鳴を放った。
 当たり前の日常が、物心ついた頃にはすでにそこにあった、ささやかな幸せの風景が。まったくの突然に、いとも簡単に壊された。炎と煙と血の臭いを撒き散らしながら。
 ……それは、そんなにすぎた願いだったの?
 涙があふれて、シリルはしゃがみこむ。幸せになりたかった。皆で笑って暮らしたかった。私は私を取り巻くものたちを愛していた。幸せに……なろうとしていた。
 それは、そんなに身にすぎた望みだったのだろうか。
(そんなことはない)
 立ち上がる力すら出せないシリルに、どこか遠くから声が降ってきた。哀しげだけれど、優しい声だった。
 ……本当にそうなの?
 シリルは泣きじゃくったまま、尋ねる。シリルの中に想いの奔流があふれ出す。
 大好きだったのに。大切だったのに。その大好きな皆の幸せを、私の存在が壊した。私のせいで、みんな、みんな死んでしまった……!
(違うよ、シリル)
 また優しい声は言ってくれたけれど、シリルの瞳からはとめどなく涙があふれて、とまらない。とめようがない。
 だって本当のことだもの。私さえいなければ、こんなことにはならなかったんだもの。ごめんね。ごめんね。みんな、ごめんね……。
 頽(くずお)れたシリルの額に、ふと暖かい気配がふれた。少し不器用そうに、けれどなんとかなぐさめようとする想いが伝わってくるように、そっと。
(シリルのせいじゃない)
 その気配は立ち上がれないシリルの頭にふれ、前髪をふわりと撫ぜる。
(だから……そんなことは言っちゃいけない。いくら泣いてもいいから、そんなことは……)
 繰り返し髪を撫ぜられる感触に、ただ壊れたように謝り続けていたシリルの意識は、やがて少しずつその暖かさの方に引き寄せられる。暗い暗い混沌の底から、引き上げられてゆく。
 ようやく恐る恐る目を上げてみたら、少し眩しい感じがした。まるで闇の迷路の出口のように、それは感じられた。
 ただぼんやりとその眩しさを眺めるシリルに、そっと、あの優しい声が降ってきた。
(シリルのせいじゃない……)


 額にふれる掌の感触に、シリルは薄く目を開いた。
「……イリヤ……?」
 傍らに座っている人影に視線を辿らせる。イリヤはシリルの額から手を離し、顔を覗き込むようにして尋ねた。
「どうだ、気分は?」
 シリルは自分の目が涙に濡れていることに気付くと、手の甲でこすった。
 時間の感覚がない。周囲はまだ真っ暗だった。暗い、暗い……星も月も見えない、重い夜空が見える。
 身を起こそうとしたら、イリヤが腕を引っ張って起き上がらせてくれた。軽い頭痛がする。頭の芯が麻痺してしまったようにぼんやりしていた。シリルはあたりを見回した。
 暗い、少し離れたところに頼りなげな光を放つ街灯が一本立っているだけの、どこかの空き地だった。空き地には埋め尽くすようにあらゆる廃材や廃品が山積みされ放置されている。日用品に家具やら自転車やらバイクやら、果ては自動車まで。
 二人がいるのもまた、そんなうち捨てられた車の陰だった。錆び付いて半ばボンネットが潰れ、ドアも外れかけた乗用車の物陰。
 あたりはしんとして、ひどく静かだった。
「……あれから、どれくらいたったの?」
 シリルはまだぼんやりした表情をしていた。
「二時間くらいかな」
 イリヤはシリルの隣に座り直しながら答えた。目覚めたばかりの彼女を連れていきなり移動を開始するのは、様々な意味で彼女にとって酷にすぎる話だった。かなり孤児院からの距離は稼げている。迷路そのもののアグラスのスラムで、しかも夜間に一度ロストしたターゲットを追跡するのは困難を極める。追手の気配はないことも確認していた。しばらくはここで休んだ方が賢明だった。
 シリルはあたりをゆっくりと見回した。乾いた夜の空気はひんやりとしていて、それは周囲の荒廃した眺めのせいなのか、いっそう冷たく感じられた。身体にかけられていたストールを無意識にかきあわせる。そうして気付いた。そのストールは、かつて彼女自身が母親に編んでやったものであることに。
「……やっぱり、夢じゃないんだ」
 シリルは穏やかとさえ言えそうな表情で、そう呟いた。
「きっと夢だ、って思ってた。こんなことあるわけがない、ありえるはずがないって。でも……」
 イリヤは何も言おうとしない。ただ、シリルが手を伸ばせばふれられるほどの距離に、黙って座っている。
「みんなに、ごめんねって……言えなかったなぁ」
 ぼろりとシリルの頬に涙がこぼれた。すっかり弱った神経と涙腺は、無意識のうちにシリルを泣かせた。夢の中でもずっと泣いていた気がするが、後から後からあふれてくる涙は涸れることを知らなかった。
「……言えなくて良かったんだ」
 どれほど経ってからか、イリヤが呟くように言った。
「え?」
「そんなの、誰もシリルの口から聞きたくないと思う」
 言った後で、イリヤがシリルの方を向き、顔をしかめた。
「いや。この言い方も無神経だな。……すまない」
 シリルは瞬きもせず、イリヤを見つめていた。やがて彼女は呟いた。
「イリヤも、何も言わないね。本当は……イリヤも、本当は、たくさん言いたいことがあるはずなのにね」
 イリヤがやや驚いた様子で、彼女を見た。見透かすような、しかし不思議と不快なものを何も感じない、彼女の瞳と声音だった。
「……そんなことは」
 イリヤは少しうつむき、それだけを言った。
 一家を守り切れなかった自責の念。それをしかしイリヤは口に出すまいとしている。詫びる、悔やむ思いには偽りがない。だがそれを聞かされたところで、シリルはどう思うだろう? イリヤのせいではない、仕方がない、と、ただでさえ傷ついた心をさらに痛めて懸命に言うに決まっている。
 今のシリルに、これ以上の悲しみを強いることなどできるわけもなかった。それに、自分の痛みくらい自分で引き受けられる、とも思った。
 シリルはそのまま黙り込み、ぼんやりと宙に視線を投げたままでいた。何もない虚ろな人形になってしまったように、その瞳には光がなかった。
 そうしてどれくらいの時間が経過したのか。かなりの時が経ってから、やがてシリルがぽつりと唇を開いた。
「ね、イリヤ」
「うん?」
「イリヤの話、何か聞かせて」
 唐突な申し出に、イリヤは何事かと彼女を見返した。
 シリルはうつむいたまま、呟くように続けた。
「イリヤの話が聞きたいの。なんでもいい、イリヤのことなら。どんなところで育ったのか、ご両親はどんな人だったのか……なんでもいいから聞きたい。ね、話して」
「話して、たって……」
 イリヤは困ったように返した。しかしうつむいたシリルの腫れて光を失った瞳を見て、ますます困ったような顔をしながらも、仕方なさそうに肩で息をついた。
「……たいした話なんてできないぞ」
 シリルが頷く。彼女が何を思って急にそんなことを言い出したのかは分からないが、その要求を叶えることで少しでも彼女の気がまぎれるなら、今はそれに応えるべきだった。
 しかし何から話せばいいのか、とイリヤはあらぬ方向に視線を投げた。考え考え、遠い時間を反芻するように、ゆっくりした口調で話し出した。


「俺は……そうだな、俺は、ずっとこのアグラスで生まれて育った。物心ついた頃にはスラムの孤児院にいたから、たぶんそうなんだと思う」
「イリヤも、孤児院にいたの?」
「ああ。ロクな場所じゃなかったけどな」
 シリルの暮らしていた孤児院とは大違いだ――とは思ったが、下手に今彼女に何かを思い出させるようなことを言うべきではなかった。
「俺、ずっと『上』に行きたくてさ。でも元をただせば、全然たいした志あってのことじゃなかった。ガキの頃は、本当にひどい暮らしで……いつか絶対這い上がってやるって、負けてたまるかって、そればっかり考えてて。結局、見返してやるためのいちばん手っ取り早い手段が、上に行くってことだったんだ」
「見返すって、誰を?」
「俺を取り巻いていたすべて。納得いかなかったすべて。俺を踏みつける全部のものに、俺はここにいるんだってことを、俺の存在を思い知らせてやりたかった」
 それはひどく本能的な、根源的な、それゆえに幼い彼の人間性の構築に最も強い影響を与えた想いだった。
「それで……行き場所もないから、ずっとそこにいたんだけど。ある日、耐えられなくなって飛び出した」
 思い出したくもない孤児院での暮らしだった。周囲より比較的歳下で、負けず嫌いだったイリヤは、他の孤児達からしょっちゅう集団で陰険な嫌がらせを受けていた。貧しく窮屈な日々の憂さ晴らしを多分に兼ねたそれは、年数と共に嫌がらせなどという生易しいものではなくなっていった。ろくに食べ物も与えられず、身体には生傷が絶えず、しまいには毎日のように気を失うまで殴られ蹴られするようになった。
 このままでは殺される、と初めて本気でそう思ったとき、イリヤは後先考えずに孤児院を飛び出していた。生きるために。だが度重なる暴力と慢性的な栄養失調とでぼろぼろになっていた小さな身体に、スラムの環境は容赦がなかった。
 そして行き倒れて、いよいよどうにもならなくなった時、セネに出会った。――あのときの身体の痛みと雨の冷たさと泥の味は、今でも忘れられない。
「セネ……さん? 女の子?」
「ああ。まあ、幼馴染みってやつだよ」
 こんなに誰かに自分のことを話したことがなく、イリヤは少し身体の力を抜いて背後の潰れかけた車体にもたれた。不思議な感覚だった。絶対に誰にも知られたくないとすら思っていた話なのに、シリルにならすらすら話せてしまえることが。
 シリルは小さな顎を時折頷かせるようにしながら、じっとイリヤの話に耳を傾けている。
「セネも、親に死なれててさ。ずっと年上の従兄と一緒に暮らしてた。そのうち俺は俺で離れて暮らし始めたんだけど。二人には良くしてもらったよ」
 話すうちに、先日のシェルツ爆破の過程の中で命を落としたセネの従兄を思い出す。
 十歳以上も年上の、いつも穏やかに構えているくせに底が知れないようなサウロが、イリヤは少し苦手だった。しかし決して嫌いなわけではなかった。
 サウロの遺体を見た時さほど動揺しなかったのは、エドガーが現れてサウロの言葉を伝え聞いた時点で、ある程度の覚悟をしていたからだ。そして、内心の動揺を抑えて行動することに慣れていたからだ。
 カート・ファインを斬ったことは、イリヤにできるせめてもの弔いだった。勿論サウロの仇は、真の意味でカートなどではない。それは分かっていたが、カートを見過ごすこともまた出来なかった。あんな男のために、あんなくだらない事情のために、サウロが命を落とすはめになったのかと思うと。
 昨日と今日で、なんて大勢の身近な人間が命を落としてしまったのだろう。あらためてそれを思い、少しの間目を伏せた。
「……俺は、そのうち士官学校に行こうって考えるようになった。あそこは実力主義だから、親も金もなくてもなんとかなるって思ってさ」
 イリヤはぽつりぽつりと語り続けた。
「あの時は、セネにすごい助けてもらったんだよな。セネがいなかったら、まず合格なんてできなかったと思う。それで、奨学生として士官学校に入学して……」
 そこでイリヤの言葉が不意に途切れた。シリルは首をかしげて、尋ねた。
「それから?」
「……いや」
 イリヤは長めの前髪を中途半端にかき上げながら、立てた片膝にその肘をついた。かすかに笑いながら頭(かぶり)を振ったそれは、シリルには自嘲に見えた。
「ここまでにしよう。俺の話なんて、これ以上聞いてもシリルもつまらないだろう?」
「そんなことないよ」
 シリルは抱えていた膝を崩して、イリヤを見上げた。じっと澄んだ瞳で見つめた後、再び膝を抱えてうつむく。
「……でも、イリヤがこれ以上話したくないなら、もう聞かない」
 その様子に、イリヤが僅かに頬を崩した。それは今度は自嘲ではなく、苦笑だった。
「士官学校に入って、一年くらい経ったのかな。俺はある事件に巻き込まれた」
 再び語り出したイリヤに、シリルが繰り返した。
「事件?」
「シリルも聞いたことくらいあるだろう。ランドール事件ってさ」
「ランドール……あの、すごくたくさん人が死んだっていうテロ事件のこと?」
「そう。俺もあの日、たまたまランドールに居て巻き込まれた一人だった。あんまりよく覚えてないんだけどな。で、どうやら死にかけたらしいんだけど。それを助けてくれた奴がいたんだ」
 そこでまた、イリヤは言葉を途切れさせた。シリルが首をかたむけるようにして、彼を見上げる。
 イリヤはうつむいてしばらく黙り込んでいたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「そいつ……シンて名前の男なんだけどさ。病院で治療を受けてる間、何度か訪ねて来てくれて。そのうち俺はそいつに誘われたんだ。一緒に働かないかって」
「働く?」
「シンは政府当局の管理下にある、ちょっと特殊なチームを統括するリーダーだったんだ。シンの率いてたそのチームが、ハイエンター軍部に所属していた」
 ハイエンター。その単語に、シリルがビクリとしたように肩を揺らした。イリヤはシリルに目を向けた。
「もうやめておくか?」
「ううん」
 シリルは首をふるふると振った。
「平気。それに、イリヤは今はもうあいつらとは関係ない。そうだよね?」
「そうだな」
 短く、だがはっきりと頷いたイリヤに、シリルも頷いた。
「じゃあ、大丈夫。聞かせて?」
「ほんとに何が楽しいんだか」
 シリルはつんと小さな顎を持ち上げた。
「楽しいんです。それに、すっごく私には大切なことなの」
「まあいいけどさ」
 イリヤはまた言葉を切り、言うべきことを整理するように、しばらくの間を置いた。
「……シンは、本当にすごい奴だった」
 そんな切り出し方を彼はした。
「俺だけじゃない。あいつに関わった誰もが多分そう思ってた。何をやらせても出来ないことなんかなくてさ。仕事だって、どんな内容でもこれ以上にないってくらい完璧に遂行する。本当にすごかった」
 一度切り出したら、イリヤは饒舌なほどの勢いで言葉を紡ぎ始めた。普段の冷静で少々斜に構えた彼らしからぬほどに、声にも次第に熱がこもっていく。
「いろんな意味で一生こいつにはかなわないだろうって思った。それでも全然構わなかった。一生かなわないだろうけど、でもいつかこいつみたいになりたいって……シンに少しでも認められたくて、馬鹿みたいに必死であれこれ頑張ってさ。自分のこれまでは、全部こいつに会うためにあったんだとさえ思った。……だけど」
 唐突に、イリヤがそこで言葉を切った。
「だけど?」
「……俺は、ついていけなくなったんだ」
 数秒の沈黙の末にそう言ったイリヤは、さっきまでの熱っぽさが嘘のように力ない表情を浮かべていた。
「何も迷わないはずだったのに、自分のやってることに疑問が生まれた。本当にこのまま、この仕事を続けていいのかって。仕事ってのはまあ、相当荒っぽくて滅入る内容が多かった。シンに対する感情は何も変わらなかったけど、少しずつ仕事の内容に嫌気がさして……一度そうなったら、どんどん全部が狂い出して。俺が俺でなくなりそうになって。どうしようもなくなった」
 イリヤの金色の眼差しの中に、ちりっと痛みの色が走った。抑えようとしても抑えきれない、胸の内の嵐を一瞬だけ覗かせたその色。
「それで、ある日限界が来て。俺はそのチームから脱走した」
「脱走……」
「とてもじゃないけど、はいわかりましたって辞めさせてくれるようなところじゃなかったからな」
 イリヤは皮肉っぽく笑った。その瞳には、彼でもこんな表情をすることがあるのかと思うほど、悔恨と惑いに倦んだような色があった。
「……だけど正直言って、今でも迷ってる。脱走したことをじゃなくて……本当にこんなふうにシンと離れちまって良かったのか、他にもっと方法はなかったのかってさ」
「そのシンて人のこと、イリヤは大好きだったんだね」
 シリルが言うと、イリヤは不意打ちを食ったような顔をした。
 きっとシリル相手にでなければ、こんな話は絶対に口にしないだろうと思いながら、イリヤは胸奥に溜まっていた思いを吐き出すように頷いた。
「……尊敬してたよ。心の底から」
「そっか」
 言った後で急に気恥ずかしさがこみ上げてきて、イリヤは照れ隠しにわしゃわしゃと頭髪をかきまわした。
「ま、要は自分のことを最優先にしたってわけだ。とことん自己中で我が儘なんだよ」
「そんなことないよ」
 シリルが真面目な顔で否定した。
「だってイリヤ、私を助けてくれたじゃない。私達を守ろうとしてくれたじゃない。本当に自分のことしか考えてなかったら、さっさと放って逃げたでしょ?」
 でも結局守り切れなかった、と返してしまいそうになって、イリヤは口をつぐんだ。その彼の少々不自然な沈黙の意味を察したようにシリルは続けた。
「私、あのときイリヤが来てくれて嬉しかった。ほんとに嬉しかったんだよ」
 イリヤはシリルを見つめ、ややあって逸らしてから呟いた。
「……そうか」
「うん」
 シリルはようやく、ほのかにではあったが微笑した。
 会話が途切れると、シリルはひとつ長く吐息をこぼした。それから抱えた膝頭に額を落とした。
 いくばくかの沈黙が流れ、そのうちイリヤは気が付いた。シリルが声も立てずに泣いていることに。
 きっと今までも、シリルはこんなふうに泣く少女だったのだろう。誰にも分からないように、悟られないように。そして、いつも人の前では花のように笑っている娘だったのだろう。自分よりずっと幼い子供達に囲まれ、貧しいスラムで日々苦労している両親を見て育ったであろう彼女は。
 イリヤはいくらか迷ってから、膝に顔を埋めたシリルの頭に、出来るだけそっと掌をふれさせた。
「こんなときくらい、我慢しなくていい」
 ついぶっきらぼうな声になった。もともと他人をいたわることなんて得意ではない。だが今は、そんなことを言っている場合ではなかった。
 シリルがひくっとしゃくりあげ、崩れるようにイリヤの胸に倒れ込んでしがみついた。そして堰を切ったように声を上げて泣き始めた。
 底知れない絶望が見えるような、あまりに身も世もない叫ぶような号泣に、イリヤは黙ってその背中を撫でてやっていた。


 そのうちシリルは、泣き疲れたのと深い疲労のせいだろう、またそのまま眠りに落ちてしまった。あえてイリヤも彼女を起こさず、その疲れ果てた眠りを守るように、星明かりひとつ見えない夜空を黙って見上げていた。
 今度は三十分ほどで、シリルは目を覚ました。
「ご、ごめん」
 ずっとイリヤにもたれていたことに気付いたシリルが、慌てたように離れた。泣きすぎたせいで頭が痛み、目眩がしたのを、またイリヤに支えられてますますあたふたする。
「別にいいから」
 イリヤに言われて、シリルはやや赤面しながら急に動くのを諦めた。しかし彼にずっともたれているのも抵抗があったので、なんとか身を離して彼の隣に並び、壊れた車を背中に座った。
 一生分泣いたのではないかと思うほど泣いて、頭がぼんやりしていた。そうしながら、とりとめもなく先程のイリヤの話を思い出していた。
「ね。イリヤ」
「うん?」
 何も言わずに横に座っていてくれる彼に、シリルは呟いた。
「さっきのお話に出てきたセネさんて女の子、イリヤの恋人とか、なの?」
「……は?」
 突飛なシリルの台詞にイリヤは意味を掴みかね、掴んだ途端に絶句した。こんな時にいったい何を言い出すのやら。
「ね。どうなの?」
「……別にそんなんじゃないけど……」
「そ、か」
 シリルはひとつ頷き、真っ暗な夜空を仰ぐようにして言った。
「じゃ、私が名乗り出てもいいよね?」
「いいよねって」
「ダメって言ってもダメだよ。もう決めちゃった」
 シリルがきっぱりした口調で言い、イリヤは唖然となった。膝を抱えたまま、シリルはそれをちらりと見上げた。
「呆れてるでしょ」
「……呆れてるよ」
 イリヤは半ば真剣に天を仰いだ。
「何がどうしてそうなったんだか」
 シリルは首をすくめ、小さく笑った。泣きすぎて目も頭も喉の奥も痛かったが、自然に笑うことができた。
「わからなくていいよ。私だって、イリヤのことはまだよくわからないもん。お互い様」
 イリヤは言い返そうとしたが、そのシリルの表情を見てやめた。
 昨日今日の出会いで、本気かどうかもさだかではない。とりあえず彼女の気がそれでまぎれるなら、今はそういうことにしておいてもいいのかもしれなかった。


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