6.サテライト (1)

   § : ZERO 「6.サテライト」
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 アグラスを離れた一行はいくつかの街を素通りし、その夜のうちにできるだけ距離を稼いだ。途中で一度だけ燃料や飲食料を仕入れ、南東へ。朝陽が昇る頃に手頃な岩場の陰でまとめて休憩を取った。
 主要幹線から外れた街道はアスファルト舗装こそされていたが、周囲の荒れた光景は所々に貧しい潅木や乾燥に強い多肉植物を生やすくらいで、殺風景この上ない。
 そんな光景の中を進むうち、彼らは移動においてひとつ目の目標にしていた「エトナ」という小都市を臨む丘陵に出た。そこは大陸を東西に繋ぐ主要幹線から外れた位置にあり、ハイエンターの勢力もアグラス直近の都市よりは及んでいない地域である。
 まだ発売すらされていない最新鋭かつハイスペックな車を頂戴することができたのは良いものの、それだけにキャンピングカーの外観はかなり特徴的で、早晩偽装処理を施す事が必要だった。
 元々が十名前後を収容できる前提の大型車輌なので、大きさや設備そのものには問題はない。どうせスペースが余っているならバイクを格納できるようにしてしまおうとか、内部もより快適に改造してしまおうという案も出て、彼らはいったんその街に立ち寄ることにした。
 とりあえず東へ、と漠然と進路は取っていたが、何にせよ長距離を移動するならばそれなりの準備も整えなければいけない。大陸中の主な大都市を結ぶ大動脈からは位置が外れており、治安も極端に悪くはなく、そこそこの規模で、ハイエンターの勢力もそこまでではない――という地方都市エトナは、逃避行の足がかりにするには手頃だった。


 大都市アグラスでアシッドが起こした一連の騒ぎは、アグラス市内では大騒ぎだったが市外に出てしまえばそこまで取り上げられてはいなかった。
 西方都市連合全体にハイエンターの勢力が強いとはいえ、各都市はそれぞれに自治政府を持ち独立している。ランドール事件ほどの規模になれば別だが、今回アシッドが起こした襲撃事件程度の規模では――シェルツ云々はどこまでも表沙汰にはならなかったので――他所の都市の人々にとっては、ああまた何かアグラスでテロがあったんだな、程度の話題でしかない。
 とはいえ西方都市連合は、全体で「ファーレンス協定」なる条約により安全保障と司法分野の情報原則を共有している。東と常に関係が不安定な時代ゆえの制度、軍人を自治体の枠を越えて優遇する「特殊軍官制度」などもそれに基づいているが、一方で条約は犯罪情報にも適用されていた。つまりどういうことかというと「どこにいっても軍人は軍人、犯罪者は犯罪者」ということだ。
 今頃はアグラス政府を通して各地に指名手配情報が流れているだろう。用心するに越したことはなく、一行はある程度の変装をして街に入ることにした。変装といっても、髪型を変える、サングラス等をかける、服装を変える、女性ならメイクをするという程度で印象は変わるので、そう大袈裟なものでもなかったが。
 まずは彼らは、キャンピングカーの偽装工作と改造をすることにした。ぱっと見怪しいと思われないようにナンバープレートを取り付けなければいけないし、あれこれ買い付けるにしても肝心の足である車を使えなければ効率が著しく悪い。
 キャンピングカーをまず街外れの目立たない場所に置き、塗装やら改造に必要になりそうな資材を調達して皆でそこに運び込んだ。大きなものや重たいものは男手が担当した。
「とにかくぱっと見の印象が変われば良いんだから」と、手っ取り早くペイントを入れたり改造パーツをつけると、だいぶ車の外観は変化した。
「うーん。もーちょいこう、パンチをきかせたいんだけどなあ」
 アスラがしかつめらしい顔でキャンピングカーを見上げながら言うのに、セネがあまり友好的とは言えない目を向けた。
「パンチってなによ」
「だからこうさぁ。ショッキングピンクにしちゃうとか、ノボリ立てちゃうとか、缶カラつけるとか。派手にぱーっと」
「必要以上に目立たせてどうするのよ!」
「だってそのほうがらしくないでしょ? ほら、泣く子も黙るレジスタンス的にはさ」
 散らかった道具や資材を運んでいたイリヤが、それを聞いて頷いた。
「一理あるな」
「でしょでしょー?」
「だからって、一目で覚えられちゃ意味ないじゃない」
「加減の問題だな。色を変えるのはありだと思う」
「だからピンク! ピンク!」
「ピンクはだめ! せめてもうちょっとおとなしい色にして!」
 賑やかに言い合っている彼らに加わろうとはせず、グルドは黙々と作業をしている。後部ドアを大きく開放したままの車内に入ってきた彼に、内部の片付けをしていたシリルが気付いた。
 昨夜からずっと渋い顔をして必要なこと以外を喋ろうとしない彼に、シリルが話しかけた。
「悩んでる、って顔してるね」
「……どうせ俺は、アタマの巡りが悪ィ」
「そんなこと誰も言ってないでしょ」
 からかうようにシリルは言った。昨夜シリルは正面からグルドに食ってかかり、グルドもそれをひどく怒鳴りつけたのだが、彼女はそんな出来事はまったく気にもしていない様子だった。華奢な外見に似合わず、彼女が時として豪胆とすら言えそうな性格をしていることを、グルドもそろそろ理解している。それにしても迫力ある灰色熊(グリズリー)さながらのグルドの怒気にふれて一歩もひかない、というのは相当ではあった。
 適当なスペースに余った資材や道具を放り込んで外に出て行こうとした彼を、シリルが呼び止めた。
「ね。イリヤのこと、許せない?」
「許すとか許さねえとか、そんな問題じゃねえんだ」
「たぶんね。イリヤは、話せばグルドを悩ませるって分かってたんだよ」
 シリルが透明感のある碧の瞳で彼を見つめた。
「すすんで話したくはないって気持ちも勿論あったんだろうと思う。聞いて周りがどう思うか、それが分からないような人じゃないもの。それでも話したのは、もう嘘をつきたくなかったからじゃないかな」
 グルドはその場に立ち止まったまま、しばらく黙り込んだ。
「……あの野郎、肝心なことはなんも言わねえからな」
「器用に見えてね。自分のことになると、すごく不器用。自分をわざと悪く見せたがるところとか。グルドとそっくり」
 小さく笑いながら言ったシリルに、グルドは面白くなさそうに舌打ちした。
「あんなのと一緒にすんじゃねえっての」
 わずかに毒気の抜けたようなその声に、シリルがくすくすと笑った。
「意地っ張りなところもそっくり」
「うるせえや」
 グルドは言い捨てて車を出た。そして、たまんねえな、と溜め息まじりに空を仰いだ。
 広がる空は、今日もよく晴れていた。


 その日一日をかけて彼らは旅の準備を整え、またどこを目下の目的地とするか、どのルートを通ってそこへ向かうかを話し合った。
 アグラスからできるだけ離れた方が無難ではあるが、あまり東に行き過ぎるとそれはそれで東との境界域に近くなり、治安が極端に悪化する。
 話し合った末、境界域とアグラスを中心としたメガロポリスの丁度真ん中あたりに位置する、ゴールドアローという都市をひとまず目指すことにした。そこは一大レジャー都市、歓楽都市として知られる大都市だったが、同時に独立不羈の気風に富んだ街としても知られている。ひらたく言えば、保紡財閥とハイエンターの干渉を全面的にはよしとしない、西方都市連合の中でもいささか特異な街である。そこならばお尋ね者でも身を隠しやすいことと同時に、今後の活動への足がかりを作れる可能性もあった。
「できるだけ迂回路をとっていくとして、半月くらいかねえ?」
 地図を広げてそれを囲みながら、だいたいの行程計画を立てた。
「そうね。補給はどうしても必要だし、それくらいは見ておいた方がよさそう」
「半月かぁ。もう旅行だね!」
「遊びにいくんじゃないのよ?」
「でもちょっとワクワクしちゃうなあ。アグラスから出たのなんて初めてだもの」
 わいわい賑やかに話し合っている彼らから、イリヤは一歩退いて黙って様子を眺めている。経歴柄地理にも詳しい彼にセネが意見を求めることはあったが、そうでもなければあえて口を開こうともしなかった。グルドに気を遣っているのか、それとも別の理由があるのか。微妙な空気を感じながらも、セネ達はそれにふれることはしなかった。
 ずっと隠していた前歴を明かしたことは、今までと変わらない様子に見えても、彼にとってもそう簡単な話ではないのだろう。彼がこの先はどうするつもりなのか、それにグルドとの仲たがいも心配ではあった。


 そうこうするうちに陽が傾き、彼らは今夜のところはエトナで宿を取ることにした。昨日から今日にかけてはかなりな強行軍で皆疲れていたし、出発したら次はいつきちんとした建物で休めるかわからない。今後を考えれば最初から無理をするのは望ましくなかった。
 エトナにも貧民街は存在し、市街地とスラムの中間あたりにある適当な安ホテルに彼らは落ち着いた。そこは簡素ではあるが極端に寂れてもおらず、それなりに泊り客もいるようだった。
 最初は男女で部屋を分けようとしたのだが、たまたまその日はうまく分かれて泊まれる部屋に空きがなく、結局大きめの部屋にまとめて宿泊することになった。

 
 西日の差し込む部屋で、セネは一人でベッドの上に座り込み無線機をいじっていた。他の者はそれぞれ荷物の片付けや買い出しなど、個々の用事で出払っている。
 そこにドアが開いて、イリヤが入ってきた。室内に居るのがセネ一人だと分かったときイリヤが一瞬明らかに戸惑ったことを、彼女は見逃さなかった。
 しかしセネはそれを顔に出すことはせず、あえてごく普通に声をかけた。
「おかえり。今日も一日、ご苦労様」
 キャンピングカーはまだ改造中だったので身軽に動き回れる足が単車しかなく、あれやこれやでこの日いちばん街中を飛びまわって忙しくしていたのは彼だった。
「ああ。セネも」
 イリヤはそれだけ言って、部屋に入ってきた。シャワーを使った後らしく髪が濡れていて、今はこれという武装もしていない。彼は部屋の隅にまとめてあった自分の荷物からメディカルキットを取り出し、セネとは離れた位置のベッドに座って手早く左肩の怪我の手当てをすませた。そこだけは傷を保護するシートを貼り付けていたが、それ以外の細かい傷はほったらかしだ。多少の怪我など珍しくもない、といった様子だった。
 イリヤは昨夜から、第三者がいる場ではセネとも普通に会話するが、一対一での会話は避けているようだった。こうしていても彼はさり気なくセネに背中を向けて、会話を拒むようにしている。
 ――このままあたしを、やんわりと避け続けるつもりかしら。
 セネは少し腹立たしくなった。彼が何を考えているのか、今のセネには手に取るように分かった。
 イリヤはどこかからか調達してきたらしい細い皮帯を取り出して、今までそうしていたように左の二の腕に巻きつけ始めた。
 そこに何があるのか、今ならセネも知っていた。「T-07」という刺青。それはまさに、固体番号、識別番号といった素っ気無さで、消えない過去を象徴するように彼の左腕に刻み付けられていた。
「ねえ、イリヤ」
 セネは彼に呼びかけた。うん? と彼が完全には振り向かずに返事をした。
「何も話してくれなかった本当の理由は、それだったんだね」
 イリヤはそれには何も返事をしなかった。窓から差し込む西日を受けて、彼の姿は逆光気味になっている。金茶の髪だけが光を透かして、淡く光っていた。
 どれくらい経ってからか、イリヤが呟くように言った。
「すまなかった」
「何が?」
「黙ってて」
 ふう、とセネは軽く溜め息をついた。ベッドから降り立ち上がると、つかつかと彼に歩み寄った。
 イリヤのすぐ側に立つとセネは彼の顔を覗き込み、右の掌でごく軽く、ぺち、とその頬を叩いた。
「意気地なし」
 驚いたような顔をしているイリヤの頬に掌を添えたまま、かなりの至近距離からセネは続けた。
「あたしがそれを聞いて逃げ出すとでも思った? あたしってそんなに信用なかったんだ」
 イリヤは視線を逸らすようにうつむいたが、セネの手を払おうとはしなかった。
「でも、ひくだろう、普通」
「そりゃあ驚いたけどね」
 セネは手を離し、屈めていた背を伸ばした。
「どうでもいいとか、そんなことは思わない。命令されただけだからって理由で、無かった事にできるとも思わない。でもイリヤは、誰に何を言われるまでもなく、自分自身でそれをちゃんと分かってる。そうでしょう?」
 イリヤは何も言わなかった。うつむきがちの睫毛が夕陽を受けて繊細に光り、そこにいる彼を、いつになく傷つきやすいただの一人の若者にすぎないように見せていた。
「なら、あたしはそれでいい。あなたはあたしにとって、大事な幼馴染みのイリヤよ。それは何も変わらないわ」
 随分長い沈黙があった。やがてイリヤは、顔をしかめてひとつ溜め息をついた。だがそれは、セネに対してのものではないようだった。
「どうしたの?」
「いや。自分に腹が立った」
「え?」
「俺は多分、セネのその言葉を聞きたくてアグラスに戻ったんだと思う」
 イリヤは膝の上で手を組み合わせ、床の一点を見るともなしに見ながら一気に切り出した。
「それを聞けば少しでも楽になれるって、どこかで分かってたんだ。でも実際そう言われてみたら、楽になる資格なんて俺にはないだろうって思った。いや、違うな。本当は最初からそれも分かってたんだ。気付かないふりをしてただけで」
「イリヤ」
「……自分が嫌になるな」
 言ったきり、イリヤは黙り込んだ。
 セネはしばらく、やや呆れた気分でそれを見ていた。相変わらず、なんというか……。
「昔からだけど。難しいんだね、イリヤは」
 そして思った。やたらに大人びているようでいて、やはり彼も歳相応の部分をちゃんと持っているのだ。それはセネにとって微笑ましいことであり、そういった弱さを今は隠さないでいてくれることが嬉しくもあった。
「悪かったな」
 イリヤはいくらか子供っぽいような顔でむくれた。セネは少しだけ笑った。
「楽になりたいって、そんなにいけないこと? ずっとそのままでいたら、そのうちすり切れちゃうよ」
「どうしたらいいのか分からないんだ」
 彼はそんな言い方をした。
「確かに俺は命令されたからやってきた。でもそんなことは免罪符にもならない。俺に殺された人達にとっては、ただ俺が手を下したって事実があるだけだ。彼らはもう笑うことも怒ることも、泣くこともできない。――俺はそういう、彼らの本当ならあるはずだった人生を、全部奪って背負ってる」
 そう言うイリヤの声は至極淡々として、感情の起伏を感じさせなかった。きっと彼は、今までも何度も何度もこういったことを一人で考え続けてきたに違いなかった。
「償いをしたいとも考えた。でも償いなんて、今さら彼らにとっては何の意味もない。俺のただの自己満足だ。それどころか、償うってことで、俺はそこにきっと救いを見出してしまう」
 その本当に途方に暮れたような声音に、セネは胸が詰まったようになって言葉を失ってしまった。そこにはあまりにも深い絶望があった。これだったのだ、と思った。再会してからのイリヤの瞳の中にちらついていた、闇色の底知れない絶望感。昔の彼と今の彼を決定的に違(たが)えているもの。これが、その正体だったのだ。
「彼らからすべてを奪っておいて、でも楽になりたいなんて……あまりにも虫が良すぎる」
 最後にイリヤはそう言って口をつぐんだ。セネはすぐには言葉を返せなかった。彼の言うことも理解できないではなかった。だけれど、同時に強く思った。
「それじゃあ、いったいイリヤはいつになったら過去から解放されるの?」
「……さあ」
「確かに虫がいいのかもしれない。でも、そうやって考え込んでたって、それも何の意味もないのは確かだよね? それこそ自己満足じゃない?」
「セネも相変わらず、だな。はっきり言う」
 イリヤが苦笑に近い表情になって、やっとセネを見上げた。
「本当にその通りなんだ。だから、どうしたらいいのかわからない」
「そっか。……難しいね」
「うん」
「でもね、イリヤ。あたしはあなたのそういうところ、嫌いじゃないよ」
 セネは彼に微笑みかけた。イリヤはまた、少し驚いたような顔をした。
「ゆっくりでいいと思う。だって、そんなにすぐに解決できるようなことじゃないでしょう。悩むだけ悩んで、ゆっくり自分なりの答えを出していけばいいと思う」
「……うん」
「でもね、ひとつだけ忘れないで」
「うん?」
「自分のことも大事にしてね。自分なんかどうでもいい、なんて考えたら駄目よ」
 心からセネはそう言った。イリヤは昔から自分自身のことにあまり頓着する方ではなかったが、今では特にその傾向が強まったようにセネには思えた。
 それはおそらく、彼が今抱えている絶望感に起因するものなのだろう。自分の犯した罪を悔い、楽になりたい、救われたいと思いながら、それを自分に許せないでいる。彼はその葛藤を周囲に安易に見せたりはしないが、本当はどれだけ苦しいのだろう。自分を強く責める思いが、無意識に自分自身を追い詰める方向に運んでしまいそうで、それがセネには不安だった。
「そんなことは……考えたつもりはないけど」
 イリヤはそう言ったが、いつになく自信なさげな様子だった。きっと自分で自分の状態を掴み切れていないのだろう。
「うん。だからね、そうはならないように、忘れないでいてほしい」
 セネの言葉に、イリヤは考えながらではあったが頷いた。セネは少しだけ安心した。彼がそこに居て、自分の言葉がきちんと彼に届いている、彼が耳を傾けてくれているというだけで、セネは自分が満たされた気持ちになるのを感じていた。昔はそんなことは当たり前で、特になんとも思わなかった。でも今は、それがどんなに大切なことだったのかよく分かる。
 不意にセネは、自分の胸の中にある想いを彼に告げてしまいたくなった。もうずっとずっと幼い頃からあたためてきた想い。五年前、一度は砕けてしまったと思っていた。あのときセネは、彼が消えてしまってから初めて自分の中にある感情の正体が恋だったことを知った。あのときはまだ自覚もできないほど幼い恋だったけれど、五年を経て再びセネの胸の中で息を吹き返したそれは、今は彼女の中で強く真っ直ぐに彼に向かっていた。
「あの、ね、イリヤ」
 思わずセネは強く呼びかけていた。その咄嗟に口をついた呼びかけは明らかに平静さを欠いており、突然様子の変わった彼女に、イリヤが怪訝そうな顔をした。
「うん?」
「あのね、あの……あの」
 告げてしまいたくなったわりに、いざそうしようとしたら喉が詰まったようにうまく声が出せなかった。たちまちぼっと火がついたように、顔だけでなく全身が熱くなった。
 駄目だ。
 セネはぎゅっと心臓を何かに掴まれたような気がした。言えない。だって彼にその気がなくて、これが原因で彼と気まずくなってしまったらどうすればいいのだろう。実際彼は今自分の事で手一杯で、それどころではないかもしれない。そしてセネと下手に気まずくなったら、今度こそどこかに行ってしまうかもしれない。
 そのとき、こつ、と扉の方から音がした。セネは飛び上がりそうなほど驚き、慌てて扉を振り返った。
 扉が控えめに開かれ、そこからアスラが、その向こうにはグルドとシリルが、それぞれに複雑な表情をしながら顔を覗かせた。
「ごめん。その、わざとじゃないんだけど。聞いちゃった」
 アスラが詫びる仕種をしながら、悪戯を見つかった子供のような顔で言った。
「いやー、だってさ、帰ってきたはいいけど、なんかすっごい入りにくい空気だったんだもんでさ」
「あ、あら、そう。べ、べつに変な話してたわけじゃないし良かったのに」
 セネは全力で愛想笑いを浮かべながらそう言った。気が付いたら今までにないほど心臓がばくばくいっており、できるだけ何気ない様子を装って西日の差し込む窓の方へ歩く。今が夕方で良かった、と思った。きっと耳まで真っ赤になっているだろうけれど、この鮮やかな夕陽の前でなら誰にも分からないだろう。
 ちらりとイリヤの様子を盗み見ると、彼は特に動揺はしていないようだったが、その表情からはセネと二人だけだった時に見せていたやわらかさは消えていた。イリヤは気付いただろうか、とセネは思った――自分が今、彼に告白しようとしたことを。考えてから、多分全然分かってないだろうな、と安堵するような落胆するような複雑な気分で思ってしまった。彼は基本的に驚くほど鋭いが、自分自身に対して頓着していないせいか、まさか自分に特別な感情を抱く人間がいるとは思ってもいないようだった。
「いつから外にいたの?」
 気にしてないよ、ということを殊更示すように、セネは軽い調子で言った。部屋に入って来ながら三人は互いに顔を見合わせた。
「あたしはたぶん、かなり最初のほうから。んですぐおっちゃんとシリルが一緒に戻って来て。あ、全部が全部聞こえてたわけじゃないよ。うん」
「夜ごはん買出ししててね。けっこう大荷物になっちゃって、歩いてたらグルドに会ったの」
 シリルの荷物をかわりに持ってやったのだろう、グルドは抱えていた紙袋をテーブルの上にどさりと置いた。
 彼はぶすっとした顔つきのままで黙り込んでいたが、そのうち何を思ってか、イリヤの前まで足を運んでいった。
「おい、イリヤ」
 ベッドに座ったまま、呼ばれたイリヤはグルドを見上げた。その前に立ったまま、グルドは決して友好的ではない声音で言った。
「おめえ、なんで傭兵なんてやってんだ?」
「なんで、って……」
 いきなりの問いかけに、イリヤは少し考え込むようにした。直接のきっかけは、かつてブレイブハートをイリヤに託し、傭兵になってみろと促した男の言葉だ。だが今まで傭兵を続けてきた理由となると、いろいろあるが特に「これ」というものは何かあるだろうか。
「……それくらいしか能がないからかな」
「そうか。じゃあ質問を変える。なんで金を取らねえんだ?」
 その予想外の角度からの質問に、イリヤばかりでなく全員がグルドを見た。
「全部が全部ってわけじゃねえんだろうけどよ。少なくとも俺らからは、あんだけ吹っかけてきたわりにビタ一文取ろうとしてねえ。傭兵稼業なんか、それこそてめえの危険と引き換えなんだ。好んでただ働きをしたがる酔狂な奴なんざ、まずいねえ」
「俺はそんな慈善事業屋じゃないぜ」
 皮肉っぽくイリヤは返した。
「そうか。ならそういうことにしておく。おめえはさっき、それしか能がないと言ったな。けど俺はそうは思わねえ。それこそおめえなら、やろうと思えばなんだって出来るはずだ。なのにあえて傭兵稼業なんて危険なことを生業にしてるのはなんでだ?」
 たたみかけるようなグルドの言い方だった。あまり喋ることは得意ではない彼にして、ここまで雄弁になるのは極めて珍しいことだった。
「おめえなりに思うことはあれこれあるんだろう。けどおめえを見てて俺は思った。――おめえは人を助けたいんだろう」
 思いもよらぬことを聞いた、というように、イリヤが数度瞬きした。
「良いふうに解釈しすぎじゃないか?」
「馬鹿で間抜けで鈍感なおめえが自覚してねえようだから、言ってやってんだよ」
 頭から叱りつけるように言ったグルドに、アスラが思わずのように吹いた。セネとシリルはすっかり目を丸くしていた。
 グルドは外野には構わず、さらに続けた。
「楽になりたいと思って何が悪いんだ? 思ったところで根っこの苦しみは消えやしねえ。だからこそ余計にそう思うんだろう。なら、それでいいじゃねえか。ぐだぐだ言うより、償えばいいじゃねえか。おめえが実際に手を動かせば、そこで助かる誰かが居るんだ。過去のことはどうにもならねえ。なら今償えよ。ぐだぐだ言うだけで何もしねえより万倍もマシだ」
 そしてひときわ強く、イリヤを睨み付けた。
「んでもって、全部抱えたまま何があろうと生き抜けよ。言ってやるがな、安心しろ、救いなんざぁそうそう訪れるもんじゃねえぞ? 苦しみ抜いて、一生かけて、やっと最後にどうにかなるかってくらいのもんだ。ましておめえがそう半端な根性でいる限り、絶対救いなんてねえ。ざまあみやがれってんだ!」
 グルドの勢いに、誰もがのまれたように言葉を失っていた。そのうちアスラがぽつりと言った。
「……やだ。おっちゃんかっこいい。ホレそう」
「ああん!? 人が真面目な話してるときに茶化すんじゃねー!」
「ごめんごめん」
 グルドが吠えたが、アスラはそのままにやにやし続け、思わずのようにセネとシリルも笑ってしまった。そこで一気に空気がゆるんだ。イリヤも顔を伏せて、いつの間にか肩でくつくつと笑い出していた。
「……まいったな。説教なんてされたの何年振りだ」
 グルドがぎんっとそれを振り返った。
「てめえまで笑ってどうする!」
「悪い」
 言いながらも、いよいよ本格的に笑い出してしまう。それはほとんど発作のようで、腹を抱えて笑っている彼にアスラが「ちょっとアンタ笑いすぎ」と突っ込んだほどだった。自分でも呆れるくらいにイリヤは笑った。
 やっと笑いの発作が去ったとき、イリヤは驚くほど自分の中がすっきりしていることに気付いた。こんなふうに腹の底から笑ったことなど何年振りだろうか。もしかしたら、セネやサウロと過ごしていた頃まで遡るくらいだったかもしれない。
「悪かった、グルド」
 言って、勢いをつけてベッドから立ち上がった。グルドを見上げる表情は、既にいつもの彼特有のしたたかさを取り戻していた。
「ちょっと整理できたみたいだ」
「……おう」
 思いの他素直にそう言ったイリヤに、グルドは若干意外そうにしたが、すぐに元通りのいかめしい顔を作った。
「俺はまだ、おめえを認めたわけじゃねえからな」
「そりゃ残念」
「けっ」
 グルドはどすどすと扉に向かって歩き出した。
「ちっと車に忘れ物したから行って来る」
「気をつけてね。それと、静かに歩きなさいね」
 セネに言われて、彼は頭を掻きながら出て行った。
「いやあ。なんつーか。よかったわー」
 アスラがまだにやにやしながら、イリヤを肘で小突いた。
「何がだ」
「あんたとおっちゃんが揉めてたら空気悪いんだよ。それにあんたがなんかへこんでる感じなのもさ。調子が狂うんだって」
「そうね。当分このメンバーなのにトラブルはごめんだわ」
 セネも安心したようにそう言った。
「とりあえず、難しい話はここまでにして食事にしましょ。おなかすいちゃった」
「はーい」
 アスラとシリルが元気よく返事をして、彼女達は連れ立ってテーブルの方に移動する。
 それを眺めながら、イリヤは確かに心の中につかえていたものが少しだけ軽くなったのを感じていた。


 セネやグルドの言葉を聞いたからといって、それだけで自分の中に巣食っている暗いものが解消されるわけではない。
 ただ、楽になりたいと思ってしまうことへの罪悪感はどうしても拭えないが、本当に悔いているのならばそれすらも背負うべきなのだ、ということは理解できた気がする。償うべき対象が既に無いというやりきれなさも含めて、胸に満ちるすべての感情を連れたまま奪った命の分だけ生きてゆくということも、ひとつの償いの形かもしれない。
 今身近で困っている者を助けたとしても、所詮は自己満足だと言われればその通りだ。だが、それによって今身近にいる者が助かることも、また事実だ。
 正しい答えなど何処にもありはしないし、それだからこそ、自分なりの答えを出し続けるために生きていかなければならないのだろう。
 イリヤは今では道を違えてしまった、かつて誰より信頼し尊敬した「彼」を思い出した。彼は……シンは、こんなふうに悩むことはないのだろうか。あるいは悩んでいても、それを一切見せないだけだったのだろうか。
 そのとき、突然イリヤは理解した。シンと対峙した時、なぜ自分が彼に対してあれほどの恐れを抱いたのかを。
 未だに彼を強く慕う感情があるからこそ、正面切って敵対することが怖かったというのも勿論大きな理由だ。だがそればかりでなく、彼の下を飛び出してから半年、未だに自分は迷い続けていて、道を違えた彼に対して真向かえるだけの何かしらの答えを得ていなかった。
 それさえ得ていれば、恐怖は拭えないにしろ、もう少しまともに彼と向き合うことが出来ていただろう。次に会った時は、自分は……もう少し胸を張って、彼を見ることが出来るだろうか?
(次に会うことがあれば……)
 突然イリヤの前に現れ、まるで今のイリヤを試すように斬りかかってきた、そして捨ててきたはずのエアシードを置いて去っていったシンの意図は、正直よく分からない。ただ、きっとこのままではいないだろうということだけは分かった。
 シンとの再会が避けられないのだとしたら、その時はせめて今回のような無様な姿は見せたくない。たとえ何もできなかったとしても、かつて誰より尊敬した相手から逃げ隠れするような真似はしたくはなかった。いや、かつて、ではない。今でも自分の中では、彼の存在の重さは半年前と変わってはいないのだから。
 イリヤは頭を一振りして、思考を追い払った。今はもう、シンについてあれこれ深く思い悩むのはやめておこう。考えたところで、どうせ何も分かりはしない。
 今考えるべきことは、ゴールドアローを目指すというグルド達の身の安全を守ること。彼らがいったん身の置き所を見つけるまでを見届けること。それから、今後厳しくなってくる可能性がある――彼自身への追手、のことだった。
 ふと視線を感じて目を上げると、セネの瞳とぶつかった。目が合うとセネは慌てたように逸らし、何もなかったようにそこにいるアスラやシリルとの会話に戻った。
 自分はよほど彼女に心配をかけてしまっているのだろうか、と思った。少し気をつけなければなるまい。いくら幼馴染みだとはいえ、必要以上に彼女に甘えたり負担をかけたりすることは望ましいことではなかった。彼女は五年前と変わらずに自分を受け入れてくれた。それだけで充分だ。
「イリヤぁ、なにしてんの? 早くこっちおいでよー」
 離れた場所で考え込んだきりだったイリヤに気付き、アスラが声をかけた。そのたちどころに「今」に引き戻す活発な声に、イリヤはくすぐったさのようなものを感じた。
 それにしても、あらためて妙な取り合わせだ、と思った。レジスタンスに、何かわけありでSCSに追われている娘に、保紡ファミリーのご令嬢に、元タナトス。いったいどういう巡りあわせがこんなメンツを引き会わせたものか。本来なら犬猿の仲と言ってもいい立場同士の者が入り乱れているのに、一緒にいることが不思議と苦痛ではない。
 やがてグルドも戻ってきて、皆が囲むテーブルに加わった。賑やかな空気に、しばらくはこんなのも悪くないかもしれないな、と思った。なかなか慣れる事ができないごく当たり前の気安い空気に、若干の場違い感と違和感を拭い去ることは、すぐにはできなかったが。


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