8.予感 (1)

   § : ZERO 「8.予感」
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 グルドがユーリアの家を訪ねて来たのには、ユーリアのみならずセネ達も驚いた。が、それ以上に彼の背にイリヤが背負われていたことに騒然となった。
「グルド、どういうことなの。イリヤはどうしたの?」
 駆け寄って言ったセネに、グルドは険しい顔で答えた。
「わからねえ。いきなり途中でぶっ倒れた」
 その大きな背に負われたイリヤは、まるで死人のように青ざめている。ぐったりして目覚める気配もない彼の様子に、ユーリアがすぐに立っていって、ベッドのある奥の部屋にグルドを促した。
「こっちに」
「――すまねえ。邪魔する」
 グルドはユーリアと目線を合わせずに、ただそれだけを言って部屋に入っていった。イリヤをベッドに下ろし、少しでも楽になるように上着と戦闘服のジャケットを脱がせ、ガンベルトや左腕のプロテクターも外す。人形のように全身が弛緩したイリヤは、閉ざされた瞼をかすかに震わせることすらしなかった。
「怪我はねえ。本当にいきなりでよ。どうしちまったんだかわからねえ」
 娘達が心配そうにベッドを囲むのを見ながら、グルドが言った。何がなんだかわからないが、仮に貧血というにもあまりに前触れなく突然にすぎる、そしてひどく苦しげだった倒れ方は、尋常な事態とは思われなかった。
「そういえば……」
 ベッドの傍らにひざまづいたシリルが呟いた。
「イリヤ、前にも倒れたことがあるの」
 全員の視線が、驚いたようにシリルに向いた。
「いつ?」
「初めて会ったとき。孤児院の庭に急に現れて……少しだけ話して。本当に、なんともなさそうだったのに、いきなり倒れちゃったの。でも目を覚ましたときにはもう全然普通で。だから、私もそんなに気にしてなかった……」
 ごめんなさい、と消え入るような声でシリルが言った。
「そんなことがあったの?」
 セネが唇を噛むようにした。
「そんなの、普通じゃないじゃない。なんで言っておいてくれなかったのよ」
「無茶言うな、セネ」
 グルドが低い声でたしなめた。
「ケロッとしてたってなら、そりゃそんなもんだろ。その後シリルだってどえらい目に遭ったんだぞ。それどころじゃなくなっちまっても仕方ねえ」
 言われたことで、セネもはっと思い当たったようだった。イリヤとシリルが出会った日。すなわちその夜には、孤児院が叶生の手の者に襲われて、シリルは家族を皆殺しにされた。そんなことがあって、まして倒れた当の本人がまったく平然としていたのなら、それについて思い出す余裕もなくなってしまっても無理もない話だった。
「そうだね……ごめん」
「ううん」
 シリルは首を振った。その瞳もまた、不安に揺れてイリヤを見つめていた。
「お医者さんを呼んだ方がいいかしら」
 言ったユーリアに、ベッドの足元の方に立っていたアスラが答えた。
「ダメ。イリヤには賞金がかかってるんだよ。しかもこの治安の悪い街でさ、ここにいるって知られたらそれこそ何があるかわからないよ」
 いつになく芯の通った毅然とした声音は、彼女がアスラ・保紡という名を持っていることを、思わず聞く者に思い出させた。
「前に倒れたときは気が付いたらケロッとしてたんでしょ。なら今回もそうかもしれない。目を覚ますまで待とうよ」
「今回もそうだとは限らないじゃない!」
 声を高めたセネに、アスラがぴしゃりと返した。
「あんまり目が覚めないようなら車に戻ろう。とにかくこの街じゃ身動きが取れないよ。どっちみち何かおかしいことが起きてるってのは確かなんだからさ、もっと大きい街に行って一度ちゃんとしたお医者に診てもらった方がいいと思うな」
 この上なく冷静な意見には、そう語る声音も手伝って説得力があった。
「そうだな。そうするか」
「……うん」
 実際に今できることは、医者を呼べない以上はイリヤが目を覚ますのを待つことしかなかった。街を出ようにも、マーケットで生じた騒ぎは徐々にルーメンフェルス全体に拡大しつつあり、それは暴動に発展しつつあるようだ。無力な少女三人と、賞金首である上に動けないイリヤを連れて出歩くのは危険を伴った。
 グルドが背中を返した。
「外にいる」
 ユーリアの家はマーケットからだいぶ離れてはいるが、暴動の広がり方によってはどこも安全とは言えないだろう。誰を振り返ることもなく、それだけ言って彼は出て行った。
 アスラもしばらくじっと身じろぎもしないイリヤを見つめた後、隣の居間へ足を運ぶ。
「あたし、こっちにいるね。何かあったらすぐ呼んで」
「うん」
 セネが頷いたとき、ユーリアが水を張った桶とタオルを持って部屋に入ってきた。
 それをベッドの側にあった丸テーブルに置いてから、イリヤの額に白い掌を当てる。
「熱はないのね。呼吸も落ち着いてるかな」
 落ち着いている、というよりも、本当に呼吸しているのかと思ってしまうほど呼吸が静かになっており、そして回数が少ない。脈をとってみると、それは力強く打ってはいたが、やはり間隔がやけにゆっくりであるように思えた。
 しかし専門的な知識など何もないユーリアには、自分の感覚だけでそれと判断することはできなかった。
 タオルを濡らし、脂汗に濡れたイリヤの額や頬を拭ってから、ユーリアは部屋を立ち去ろうとしないセネとシリルに言った。
「少し、外に出てくるわ」
「え。でも……」
「大丈夫よ。家の前に行くだけ」
 淡く微笑んだ彼女に、ふたりは悟った。ユーリアはグルドと話しに行こうとしているのだと。
「分かりました。ありがとう、ユーリアさん。お世話をかけてごめんなさい」
 ぺこりとお辞儀をしたシリルに、ユーリアは穏やかに返した。
「いいのよ。謝ることじゃないわ」
 そして彼女も部屋の外に消え、ドアが静かに閉められた。


 ユーリアの家は、裏口もそうだが玄関も狭い路地に面していた。真向かいに当たる家屋は長く誰も住んでいないらしく、窓はすっかり埃をかぶって暗い。その無人の家の玄関ポーチに、グルドは一人座り込んでいた。
 街の中心で起きている騒乱の声が、かすかに聞こえてくる。
 もともと治安の良くないルーメンフェルスではあるが、この近辺はユーリアが女性で一人暮らしをしていけるくらいにましな一帯だ。それでも万が一このあたりまで危険が及ぶようであれば、自分が何とかしなければいけない。迫る危険はないか、グルドはじっと耳をそばだててその兆候を逃さないようにしていた。
 その耳に、ユーリアの家の玄関が開く音が静かに響いた。
 曇天から落ちる鈍い明るさの中に、見事な白金の髪を長く垂らした女性がゆっくりと現れた。彼女はほとんど足音を立てないまま、座り込んだグルドの近くまで歩を運んだ。
 グルドは彼女と目を合わさないまま黙り込んでいた。五年振りに再会した彼女と、事が事だったのでいきなり顔を合わせることにはなったが、やはりまともに向き合うにはためらいの方が大きかった。いざ彼女を前にしても、何も言葉が出てこない。
「……サウロ、亡くなったんですってね」
 やがて静かに切り出したのは、ユーリアの方だった。まろくやわらかい、五年前と何も変わらない声音だった。
「……ああ」
 何と言えばいいのか分からず、それだけを返す。
 沈黙が続き、ふとグルドは気が付いた。ユーリアが声も立てずに泣いていた。その白い頬に、菫色の美しい瞳からただ静かに涙の粒が零れ落ちている。
「……なんで、泣いてんだ?」
 思わず気をのまれて、グルドは問うてしまった。ユーリアはゆっくりと細い首を振った。
「なぜ、かしら。そうね」
 ふう、と、桜色の唇から細く長い吐息が洩れた。
「あなたの大事なものが、またひとつなくなってしまったから」
 その静かな声にこもった底知れないような悲しみに、グルドは驚きを隠せないまま、ただ彼女を見返した。
「セネちゃんに会って、あなたがこの街に来ていると分かってから……」
 ユーリアは淡々と呟くように続けた。
「私が何を真っ先に考えたか、分かりますか?」
「……いや」
「会いに来てはくれないかしら。……って」
 グルドに視線をめぐらせ、ユーリアは花が淡くかすむように微笑んだ。
「来てくれるはずがない、って思っていたから。期待はしなかった。あなたが元気にすごしているなら、それだけでいいってね」
 グルドは驚きのあまり、声を出すこともできない。ただ馬鹿のように彼女を見つめるばかりだった。
「あの男、ジリオン・ブラッドのリーダーなんだけれど。前から何度も言い寄られていて、本当に嫌で仕方がなくて。今日もあいつが来て、もう嫌だ、誰か助けてほしいって思ったとき、浮かんだのはあなたの顔だった。そう思ってたら、本当にあなたが現れて、あいつらを蹴散らしちゃったんだもの。びっくりしたわ」
 涙を零しながら、彼女は本当におかしそうに声を立てて笑う。
「これは夢かと思ったわ。神様って、本当にいるのかもしれないわね」
 ひとしきり笑い、それからユーリアは涙をぬぐった。そしてグルドの正面に立つと、深く、ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめんなさい」
 顔を伏せたまま、彼女は続けた。
「あの頃、気が狂いそうだった。あの子がいなくなって……誰かのせいにしなかったら、耐えられなかった。あなたのせいじゃなかった。あなたは悪くなかった。分かっていたのにあなたのせいにして、少しでも楽になろうとしたの」
「ユーリア」
「許してとは言わない。誰より卑怯で醜かったのは私よ。あの子が死んだのがあなたのせいだというなら、新市街に行くのを止めなかった私も同罪だわ……」
 グルドは衝かれたように立ち上がっていた。うつむいたままのユーリアの細い肩をつかむ。ふれてみると見た目より一層その肩は薄く細く、今にも折れてしまいそうだった。
「おまえのせいじゃない。もういいんだ」
 もういい。驚くほどすんなりと、その一言が口をついた。五年の間胸の奥に飼い続けた、苦すぎる後悔と痛みが、彼女の言葉に跡形もなく溶け去って消えてゆく。無論、メリアを失った痛みと苦しみは消えはしない。そんなもの、一生消えはしない。だが少なくとも、世界で最も愛した女から憎まれ、恨まれていたと思っていたその重い苦みが、嘘のように氷解してゆくのを感じた。
 ユーリアは顔を上げないまま、掌でその顔を覆った。近づいたことで、彼女の耳元に長い髪に隠れるように銀色の小さなピアスが光っているのが見えた。それは昔、グルドが初めて彼女に贈ったものだった。
「ずっとあなたに謝りたかった。あなたに謝りたかったの。あなた、ごめんなさい。ごめんなさい……!」
 子供のように泣きじゃくるユーリアを、ただグルドは抱き締めた。気のきいた言葉など何も出てこなかった。だから言葉のかわりに、ずっと彼女を抱いていた。彼女が泣きやむまで。
「……もう、いいんだ」
 ようやく彼女が泣き止んできた頃、グルドはもう一度言った。これほど優しい声が出せるのかと、自分でも驚いてしまった。
「俺みたいな奴のために泣いてくれて、ありがとな」
 うまく言葉がまとまらず、そんなことを彼は言った。いささか照れくさかったので、ユーリアを抱き締めたまま、顔を見られないようにして。
「……あなた」
「ま、それだけでいいさ。俺はよ」
 彼女の身体を離し、グルドは照れ隠しもあってへへっと笑った。
 ユーリアは彼をじっと見上げていた。そのアメジストのような瞳を、世界中のどんな宝石よりも綺麗だとグルドは思った。言ったらそれこそ恥ずかしさで悶死しそうなので、口には出せなかったが。
「……あなたが今はレジスタンスなのは分かってるわ」
 やがてユーリアが切り出した。
「アグラスで騒ぎになったことも知ってる。危険な目に遭っているのね」
「まあ、そうかもしれねえが」
 グルドはぼりぼりと頭を掻いた。それはユーリアの望むことではないだろう。だが今となっては、グルドもまた後には退けない。レジスタンスであることをやめることはできない。
「みんな、良い子達ね」
 小さく微笑んだユーリアに、グルドもニヤと笑う。
「まあなぁ」
「思ってたより、ずっと賑やかで楽しそうで良かったわ。安心した」
「ああ」
「いなくなってしまった人もいるけれど……新しい出会いもあるものね」
 ユーリアが静かにグルドに瞳を巡らせた。細い顎を持ち上げて、真っ直ぐにグルドを見つめる。
「ねえ、あなた。私も過去の人間にならなければ駄目?」
「うん?」 
「今のあなたの……側にいては、いけない?」
 ごく静かな問いかけに、グルドは時間が止まったような錯覚を覚えた。
 手を伸ばせばすぐに届く位置に彼女はいる。そしてその瞳は五年前と変わらずに美しいまま、グルドを見つめている。ただその眼差しは、何も知らずに幸せに笑っていられた頃とは、少しだけ違っている。深く深く――哀しいほどに優しい。
「……俺は」
 どれほどの時間が経ってからか、ようやくグルドは口を切った。
「危険だと分かってるのに、おまえを連れて行くことはできねえ」
 五年のうちに、グルド自身も積み上げてきた。様々な感情と、様々な出来事を。それらの積み重ねは、どれほどに愛しい女であれ手を再び伸ばすことをためらわせた。彼女を危険な目に遭わせたくはない。彼女のために今の生き方を、アシッドを捨てられるかと問われれば、捨てられないと迷いなく答える。五年の歳月の間に積み重なったものは、それほどに重かった。
 ユーリアは黙って彼を見つめている。その瞳が、やがて淡く色をなごませた。
「そうね。そこで良いと言えるあなただったら、私もあなたを愛していなかった」
「……ユーリア」
 また少し零れた涙を、ユーリアは白い指先で拭った。
「あなたが変わらないでいてくれてよかった」
 これほど美しく華やかな微笑を自分は知らない。そのときの彼女を見て、グルドはそう思った。
「私は大丈夫よ。あなたのやりたいことを、邪魔する女になりたくはないの。やりたいことを存分に、やりたいようにやってちょうだい」
「――ああ」
「また、会えてよかった……」
「俺もだ」
 頷いたグルドに、ユーリアの瞳からまた涙が零れた。それを今度はグルドの指が拭ってやった。
 そして心底思った。この女と出会えて、愛されて、自分はきっと世界一幸せな男だと。


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