9.接触 (1)

   § : ZERO 「9.接触」
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 小鳥が飛び立った反動でしなった枝の隙間から、木漏れ日が揺れて散った。
 ざらついた木肌に手をついて、シリルはそれを見上げた。揺れる枝から、パラパラと小さな水滴がきらめきながら落ちてくる。
 薄いにわか雨が通り過ぎたばかりの枝には明るい陽光が降りそそいで、重なり合う柔らかな緑を金色に縁取っていた。
 明るい木立の群れは、森というほどには深くはない。差し込む日差しが照らす下生えの草は青くやわらかく、ところどころに見える岩にはビロードのような苔が広がっている。その岩場の陰や木の根元には、小さな傘をつけたキノコがまばらに姿をのぞかせていた。
 姿の見えない様々な小さな生き物たちの気配が満ち、どこかで鳴いている鳥のさえずりを聞きながら、シリルはひょいひょいと地を這う木の根の間を渡ってゆく。軽い動作に、長く艶のある栗色の髪が揺れる。
 歩くうち、彼女はささやかな水音に気付いた。幅の狭いごく小さなせせらぎを見つけ、覗き込んだ透明な水流の中には、銀色の小さな魚達が背をキラキラと反射させていた。水辺にしゃがみこんで物珍しく清流の中をのぞき込むうち、少し離れた水中の岩の陰で何かが動いていることに気付いた。
 大きな虫の脚のようにも見えるそれに身を乗り出したが、乗り出しすぎて前のめりになり、短い悲鳴を上げて水の中に手をついた。幸い水深はごく浅かったが、突然の闖入者に驚いた小魚や岩陰の生き物が、一瞬のうちに姿を引っ込めてしまった。
「うー。逃げちゃったぁ」
 気候的に寒くはないので濡れたのはまだいいものの、小川の縁に座り込んだままで小さく唸る。その耳に思わず吹き出したような笑い声が聞こえて、シリルは驚いて振り返った。いつの間にか、明るい木立の下に金茶の髪の若者が立っていた。
「イリヤ」
 誰かがいるとは思ってもいなかった上にみっともないところを見られてしまい、かあっと赤面する。シリルは慌てて立ち上がり、イリヤに小走りに歩み寄った。
「い、いつからいたの?」
「かなり前から。……あんまり楽しそうで、声をかけそびれた」
 よほど歩き回るシリルが一人ハイテンションだったのだろう、苦笑混じりのように言う彼にますます赤くなってしまう。あらためて振り返ると、ここに至るまでの自分は確かにかなり挙動不審だったように思う。
「ここが随分気に入ったみたいだな」
「見たことないものがいっぱいで楽しいの」
 思わず意気込んで答えたシリルに、イリヤはごく軽くではあったがまた声を立てて笑った。
「身の回りが落ち着いたら、もう少しゆっくり色々見て回れるといいな」
「うん。なんだかね、すごく不思議な気持ちなの」
「不思議?」
「うん。私ずっとアグラスにいて、一歩もアグラスから出たことがなかったでしょ。世界は広いんだって頭では分かってたけど、それがどういうことなのかって、やっぱりよく分かってなかったの」
 シリルは胸に手を当てるようにして言葉を続けた。
「ああ、私はこの世界に生きてるんだなあって、見たことがない景色を見るたびにそう思うんだ。私は世界とつながってるんだって。……うん。いろいろなもの、もっとたくさん見て回りたいな。世界中、何があるのか見て回りたい」
「……そうか」
 イリヤは頷きつつも、話を半分ほどは理解できていない様子だった。それに気付いて、シリルが肩をすくめた。
「イリヤはいろいろなところを歩いてるんだもんね。あんまりピンとこないかな?」
「シリルの言うことがよく分からないのは、いつものことだ」
 軽く返した彼に、シリルは頬をふくらませた。
「もう。そういう言い方はよくないと思います。人のこと言えないじゃない、イリヤだって」
「俺?」
「そう。よく分からないです。いつも秘密主義のイリヤくん」
 つんとシリルは細い顎をそむける。イリヤがぱちぱちと瞬いたところに、頭上の高い枝を飛び立った鳥が蹴って、拍子に枝葉にからんでいた水滴が通り雨のようにあたりに落ちてきた。
 思わず二人ともが見上げた空に、濃密さを増してきたような夏を思わせる真っ白い雲が浮かんでいた。


 ゴールドアローを目指す一行がこのささやかな森林地帯に入ったのは、つい先日のことだった。
 大陸の自然は全体的に荒廃しているが、それでも地域によっては緑が広がっている。森林というよりも荒地の中のオアシスといった程度の局地的な規模のものばかりだが、それでも目に鮮やかな緑は、荒野に囲まれた都市に育った者には充分に目新しい。
 オアシスの点在する地帯では、街道はそういったオアシスを中継するように走っている。規模の大きなところではキャンプ場が設営されていたりもした。キャンプといってもレジャー目的ではなく、陸路で大陸を移動する者が野営するためのものだ。
 都市と都市を繋ぐ交通網は複数存在したが、環境の厳しさもありそれほど発達しているとはいえない。様々な理由から、公共機関ではなく自前の手段で移動する者も少なくない。この日彼らが休憩場所に選んだのも、そういったキャンプ場のひとつだった。
 

「みんなと出かけたと思ってた」
 明るい森の中をイリヤと一緒に歩きながら、シリルは言った。
 シリル以外の者達は、車をしばらく走らせたところにあるシェルノという街に、車の整備と情報や物資を仕入れるために出かけている。シリル一人が残ることに当然他の者は難色を示したのだが、ここには今のところ他に誰もいないのだし、下手に街に出るよりよほど安心だ、少しでも何かあったらすぐに連絡するから、と半ば無理に押し切った。それでも渋っていた皆がなんとか承知したのは、そう言ったときのシリルがいつになくカラ元気を装っていたのが伝わったせいかもしれない。
「しばらく一緒だったんだけど。特に問題もなさそうだったから戻ってきた」
 そう答えたイリヤは、下はカーゴパンツだがいつものような戦闘服仕様ではない。上もごくシンプルなシャツ姿だ。
 報奨金の絡むS級指名手配者に格上げされてしまった彼は、ルーメンフェルス以降、普段は以前のようないかにも傭兵という武装を避けるようになっていた。確かに戦闘服から普段着になっただけで印象は大きく違い、そうしていると彼も一見いかにも活動的な、ごく普通の若者に見えた。
「それにシリルのことも、一人にしておくのは心配だったからな」
 言葉の通りでまったく裏も他意もないような彼に、シリルはついと目を動かした。他意があればシリル的には嬉しいのだけれど、彼のことだから本当にないのだろう。気にかけてくれているのは、素直に嬉しくはあるのだが。
 その視線に気付いて、イリヤがシリルを見た。
「何だ?」
「う、ううん」
 シリルは思わずどきりとして、慌ててぶんぶん首を振った。そのいささか過剰な反応に、イリヤはきょとんとした。
「イリヤも、せっかくなんだしお医者さんに診てもらえばいいのに」
 急に動揺してしまったのをごまかすために、シリルは話を振ってみる。しかしそれは、実際に気になっていることではあった。
 一週間ほど前に通過したルーメンフェルスと、さらに遡ればシリルと出会ったその日、イリヤは明らかに尋常ではない倒れ方をしていた。
 一度ちゃんと医者にかかってはどうか、というのが皆の共通意見だったのだが、これまでの道中ではそれも難しかった。追跡されないようルーメンフェルス以降はことさら注意して迂回路を取り、補給で街に立ち寄るにしても極力長居はしないようにしてきたし、S級手配書が最近出回ったばかりのイリヤは人目のある場所には立ち入らないようにしていた。
 しかしシェルノほど大きな街ならば、人が多いだけにその中にまぎれてしまいやすい。彼は服装や立ち居振る舞いを変えることで別人の如く化けるのが得意だったし、何も馬鹿正直に素性を名乗る必要もない。
「医者ね……」
 イリヤは他人事のような顔で呟いた。
「そのへんの医者に行ってどうにかなるものじゃない、って気がするんだよな」
「え?」
 思わぬ言葉に足を止めたシリルに、彼もまた足を止めた。にわか雨の後の空気は、爽やかでほのかに甘い。そこに木々や草や苔の匂いが混ざって、いっそうやわらかい感触になっていた。
「自分の身体のことだし、なんとなく原因は分かる気がするんだ。街医者レベルでどうこうなる話じゃなさそうだって」
「どういうこと?」
 不安顔になったシリルに、イリヤは安心させるように言った。
「まあ、当面は問題ないと思う。なんかシリルが近くにいると、調子いいみたいだしさ」
 冗談めかしていたが、それは案外本気のようだった。シリルはあらためて彼の姿を見返した。
 彼はルーメンフェルスを脱出する時、追跡してきたタナトスと大乱闘を展開し、骨折などの重傷までは至らないものの軽傷とも言い難い手傷を負った。しかしそれからたったの一週間で、その外傷のほとんどがもう目立たなくなっていた。
 いくらなんでも治りが早すぎるのではないか、とは誰もが思った。良いことではあるのだが、やはりそれは「普通」とは言えない現象だった。
 そしてその不思議な現象は、連鎖していくつかの記憶をシリルの中に呼び覚ました。かつて両親に聞かされた話……ごく赤ん坊の頃、大怪我を負っていたシリル自身が、ろくな治療もできなかったにも関わらず驚くほどすぐに回復してしまったという出来事。そして孤児院を訪ねてきた叶生博士が、かつて口にした言葉。
『あなたが無意識のうちに、死んだ土を甦らせ、木々を茂らせ、花を咲かせているんです』
 そんな馬鹿な話はない、と頭では思う一方で、シリルは言い知れぬ不安を感じずにいられなかった。それをことさらに煽るのは、ルーメンフェルスでの記憶が一部欠落していることだった。
 あの時ユーリアの家の中にいたはずが、気が付いたらグルドに抱きかかえられていた。そしてそんな自分に対し、イリヤは「覚えてないのか」と尋ねた。
 覚えていないのか、と確認されたということは、シリルは自分の意思で家の外に出たということになる。けれどあの時、突然ひどい頭痛に襲われてからのことがシリルには思い出せない。今まで経験したことのないような恐ろしい痛みだったことだけは覚えている。……あれからの数分間のうちに、自分はいったい何をしていたのだろう。
「イリヤ……」
 彼はそれを知っているはずだ。いや、彼だけではない。あれから心なしか、全員がシリルに対して気遣うような、様子を窺うような素振りを見せている。シリル自身が記憶がないことで過敏になっているだけなのかもしれないが、一度感じた違和感はぬぐい切れなかった。
「私……あのとき、何をしたの?」
 欠落した数分間の記憶。その数分間のうちに、自分は「何か」をやったのだ。ふれずにおこうと親しい人達に思わせ、気遣わせるような何かを。
 あのとき、という曖昧な表現だけでも、イリヤにはその意味が通じたようだった。
「シリル――」
「私、何かしたんでしょう? みんなそれ、黙ってる。私平気だから、ちゃんと教えてほしいの」
 聞いておきながらそれを知るのが怖くなって、シリルはぎゅっと目を瞑って息を詰めた。寒さなど覚えるはずもない気候なのに、細かく身体が震えていた。
 ややあってから、その耳に普段とさして変わらぬ、けれどいくらかやわらかい声が届いた。
「シリルは、俺を助けてくれたよ」
 思いもよらぬ言葉に、シリルは強張っていた顔を上げた。
「俺だけじゃない、みんなを助けてくれた。そんなに恐がらなくていい」
「助けたって……私、何をしたの?」
「なんて言えばいいのかな。あのとき俺、また動けなくなってやばかったんだけどさ。シリルがそれを治してくれたとしか言いようがないんだよな」
 イリヤも説明に悩むように考え込んだ。
「グルドも撃たれて怪我してたんだけど、気が付いたらそれがきれいに治ってた。嘘みたいな話なんだけどさ。あのときシリルが治してくれなかったら、俺は勿論、全員どうなってたかわからない」
「……私……」
 イリヤの言葉を聞くうちに、ぼんやりと断片的な光景が脳裏に甦ってきた。思い出そうとすると遠ざかってしまう、脈絡がないようにも見える光景。家の中から、セネ達が止めるのも聞かずに外に出た。右腕から血を流しているグルドを見、粗暴な男達に囲まれて地面に倒れているイリヤを見た。あのとき自分は何を考えていたのだったか。自分の記憶のはずなのに、他人の記憶を垣間見ているようにひどく曖昧だ。そのよく覚えていない自分は、あのとき造作もなく自らの中の見えざる力を操り、危機に陥っていた彼らを救った……今のシリル自身には、何をどうしたのかすら分からない手段をもって。
「シリル」
 呼ばれて、白昼夢を見ているようにぼんやりしていたシリルは我に返った。少しばかりあらたまったイリヤの声音と眼差しは、いたわりの気配と迷いのなさを宿していた。
「シリルが自分の力を嫌ってることは知ってる。無理もないと思う。でもシリルの力は、俺なんかの力と違って、ただ傷つけたり破壊するだけじゃなくて……不思議だけど、多分生き物に力を与えたり、癒やすこともできる力なんじゃないかと思う」
 自分の持つ常人にはない力を、そしてその由来を忌み嫌っている、という点においては、彼もまたシリルと共通していた。その彼が言うことだからだろうか、シリルはその言葉を抵抗もなく聞くことができた。
「許せなくていいし、できるだけ忘れてしまってもいいと思う。でもその力が俺達を助けてくれたのは事実だ。……だからその力はそう悪いものじゃないって、俺は覚えておくよ」
 咄嗟に思考の整理がつかず、それと同時に少しばかり胸がつまったようになって、シリルはすぐに言葉を返せなかった。
 シリル自身は、どうしても自分の持つ「力」を受け入れることができない。得体の知れなさが恐くもあるし、このせいで平穏だった生活を奪われた、家族を失ってしまったという思いが打ち消せない。
 それでも、そのシリル自身にはどうしても受け入れられないものを、そう悪くないものだと言ってイリヤが受け止めてくれる。それは何か、救われることのような気がした。傷つけ、奪ってしまうだけのものだとは思わないでいい、と言われているように。
「……うん」
 だが言葉に出しては何もうまく言えず、ただそう頷いただけだった。
 いつかのように、イリヤがシリルの額髪をくしゃくしゃと撫でた。そこにあった彼の笑顔に、シリルは思わず硬直してしまった。
 硬直しているシリルに気付く様子もなく、イリヤは適当にそのあたりをぶらつき始める。彼の上にちらちらと木洩れ日が落ちかかり、低い枝に茂る緑の色に金茶の髪がやわらかく映えて、その淡い光がやけに綺麗だった。
 そこに立つ彼を見て、ふとシリルは、ここしばらくの間で彼は随分変わったと思った。出会った頃の彼は常にどこか張り詰めていて、こんなくつろいだ表情を見せる人ではなかった。
 彼の中にある何かが、この頃彼を急速に変えている。
 その「何か」は何なのだろう、とシリルはぼんやり考えてみるが、わからない。
 いや、そもそも彼のことはよくわからないことだらけだ。彼はとてもたくさんの「顔」を持っている。もともと今ひとつ掴みどころがなくて、さらには服装や周囲の状況でも印象がガラリと変わる人で……たとえばそうしてくつろいだ様子で立っている姿はごく普通の若者のようで、とても荒っぽいことに縁がある人のようには見えない。
 だけれど彼は「タナトス」という恐ろしい部隊にかつて所属していた人で、立ち向かうべき相手を前にしたときには、まるで何者もそこに立ち入らせないようなひどく孤高な峻烈さを纏う。
 その対照的な姿のどちらもが、間違いなく彼なのだろう。無意識のうちにじっと見つめていたシリルに気付いて、イリヤが落ちかかる淡い陽射しの中で視線を巡らせた。シリルはそれを見て、はっきりと自分の胸が高鳴るのを感じた。
(――どうしよう)
 彼を好きだ、という自覚はあったけれど、この頃はなんだか、どんどん際限なしに気持ちがあふれてくる感じがする。
 彼は自分のことは本当に何も言わない上に、あまり感情を表に出さないから、何を思っているのかよく分からない。
 だけれどその胸の奥には、たくさんの思いや感情を、傷や痛みを、人知れずしまい込んでいるのだろう。それらを、もっとたくさんの彼の顔を知りたかった。
「どうした。気分でも悪いのか?」
 うつむいたシリルを見て、イリヤは体調不良かと案じたらしい。歩み寄ってきて気遣ってくれるけれど、「そうじゃないよ」とシリルは言ってしまいたくなった。
 こういう感情に彼が疎いとは分かってはいるけれど、そもそもシリルは彼に対して好意を持っていることを隠していない。もうちょっとそれについて、まともに取り合ってくれてもいいのではないだろうか。
 どうしたら、自分は本気なのだと彼に分かってもらえるのだろう。それともここまで相手にしてもらえないということは、つまり「脈なし」ということなのだろうか。
「……あのね。イリヤ」
 言いたいことは山ほどあったが、ありすぎて肝心なことが出てこなかった。そのかわり、以前から気になっていたことが口をついて出た。
「イリヤは、ずっと私達と一緒にいてくれる?」
 その問いかけは、イリヤにとって意外なものだったようだった。シリルは彼を見上げて先を続けた。
「だいぶアグラスからは離れたけど、まだ何があるか分からないもの。私達のこと、守ってくれる、よね?」
「ああ。それは」
 続いた言葉に、イリヤはやっと意味を把握したというように頷いた。
「勿論。全員の安全が確保されるまでは、一緒にいるつもりだ」
 あくまでも限定的なその表現に、シリルの眼差しが揺れた。
「じゃあ、みんなが安全になったら、いなくなっちゃうってこと?」
「それ以上一緒にいる意味がないだろう。元々俺は、そのための傭兵なんだから」
 あっさりと言ったイリヤを、シリルは真意を測るようにじっと見つめた。
「でも、セネは幼馴染みだし、グルドだってアスラだってもう他人じゃないでしょう?」
 そんなにあっさりと、本気で「意味がない」だなんて言い切ってしまえるのだろうか。彼の本心は。
「他人だとは思ってない。でもルーメンフェルスで襲ってきたあいつ、覚えてるだろう」
 イリヤの言葉で、特徴的な黒い制服に白銀の髪が印象的だった、まだ少し少年の気配を残した若者のことをシリルは思い出した。カデルと名乗った、ぞっとするほど残酷な眼をしたタナトス。
「奴は確かにシリルとアスラを連れ戻す任務を請け負っていたけど、半分は俺が招き寄せたようなものだ。この先も連中は、俺を粛清しに現れると思う。俺が必要以上に側にいることは、みんなにとってむしろ危険なことになる」
「また来たら、みんなで追い返してやればいいじゃない」
 思わずむきになってシリルは言ってしまった。イリヤの言うことは分かるけれど、彼が誰に話すでもなく結論をもう出してしまっていることがもどかしかった。
「俺個人のトラブルだからな。それで周りを危険に晒すのは気が進まない」
 苦笑するようにイリヤは言った。
「それに俺だって、需要がないところでいつまでも油を売ってはいられないさ。食い扶持を稼がないとな」
「そんなこと言って。お金とってないじゃない」
 ビジネスライクな話を持ち出すのは卑怯だ、と思いながら、シリルはいささかふくれて反論した。
「時と場合だ。ま、今回はサービスだよ。セネが関わってるんじゃ放っておけないしさ。ましてシリルのことは俺が連れてきたんだから」
「お金には困ってないって言ってるの、聞いたことあるよ?」
「余裕はあるけど、無駄遣いできるってわけじゃない。それに傭兵の仕事は、俺にとって金の問題じゃないんだ」
「私達だって、絶対安全なんて言い切れないよ? とりあえず近くにいて、イリヤはイリヤでお仕事してればいいじゃない」
「俺がいつまでもつきっきりでいなきゃいけないなんて、それこそグルドを馬鹿にしてるだろう。あいつがリーダーなんだし、シリルを責任持って引き受けるとも言ったんだしな」
「私達、いつかはアグラスに戻るんだよ。きっと危険だよ?」
「手が必要になったら、あらためて呼び出してくれればいい」
 どう言っても論破できないことに、シリルはうつむいてきゅっと唇を噛んだ。そうだ、イリヤの言うことはことごとく正論だ。反論の余地がない。だけれどそこには、感情の入る余地がなさすぎる。彼は、誰とも離れがたいとは思わないのだろうか。彼の中には、親しい者同士で助け合う、という考えは存在していないのだろうか。
「今すぐって話じゃないし、何も縁を切るって言ってるんじゃないんだから。そんな顔をしないでくれ」
 シリルがあまりに暗く沈んだ顔をしていたせいか、イリヤがフォローするように言った。
「こっちの居場所は言えなくても、連絡は取り合えるようにするつもりだ。それでいいだろう?」
 よくないよ、と喉元まで出かかった。
 イリヤは本当に、本気でそれでいいと思っているのだろうか? それでは彼に何かあったとき、自分達はどうやってそれを把握すればいいというのだろう。タナトス達を敵に回して、確実に無事でいられるとはイリヤ自身だって決して思ってはいないはずだ。手助けさせてくれればいいのに、そうすれば彼だって確実に楽になるだろうに、なぜそれをさせてくれない。
 それに……彼と離れ離れになるだなんて、考えただけでつらくて寂しくて、シリルは泣きたくなる。
 黙り込んだことでシリルの気も済んだと判断したのか、イリヤはそれ以上は何も言わなかった。
 そのあたりをまた適当に歩き始めた彼の後ろ姿を、シリルは泣き出したいような気持ちで目で追った。
 これがセネだったら、イリヤの反応はまた違うのだろうか。
 タナトスを脱走して厄介な身の上になってしまったにも関わらず、彼はすべてを差し置いて、ただ一人セネに会うためだけにアグラスに戻った。その事実に、シリルは二人の間にある特別な強い絆を感じずにいられない。
 自分ではなく、セネが訴えたなら、イリヤを引きとめることもできるのだろうか……。
 なんだか脱力して、溜め息をついて頭上を見上げた。透ける枝葉の間から綺麗に青い空が見える。その空の青さまでが切なくて、はふ、ともう一度シリルは大きく溜め息を落とした。


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